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読んだ本

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自分が読んだ本についての、感想、コメント、連想を、気ままに書いています。
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2021年1月の記事一覧

#50:ノーマン・マルコム著『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』

 ノーマン・マルコム著『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー, 1998年;原著刊行は1958年)を読んだ。先日読んだ古田徹也氏の本の中で本書が紹介されており、これまた買って以来長年棚に挿したまま未読だったところを引っ張り出して読んだ。  著者が学生として出会ってから亡くなる直前までのウィトゲンシュタインとの個人的交流のエピソードと、ウィトゲンシュタインからの私的な書簡の一部が数多く紹介される中で、ウィトゲンシュタインの人柄が、その対人面での困難さ

#49:伊坂幸太郎著『ラッシュライフ』

 伊坂幸太郎著『ラッシュライフ』(新潮社, 2002年)を読んだ。著者の作品を読むのは初めて。人気作家であることは知っているが、ずっと食指が動かなかった。今月初めに読んだ新井久幸著『書きたい人のためのミステリ入門』(新潮新書, 2020年)に紹介されているのを読んで、試しに読んでみようと思った未読作家・未読作品が2冊あったうちの1冊。(ちなみに、先に読んだ、これまた長らく食指が動かなかった某人気作家の初読作品は、私としては低評価。おそらくこの作家の作品を読むことは二度とないだ

#48:中村雄二郎著『西田哲学の脱構築』

 中村雄二郎著『西田哲学の脱構築』(岩波書店, 1987年)を読んだ。この本は確か大学生の頃にキャンパスのすぐ側の古書店で買ったものなので、入手以来かれこれ30年以上経ってやっと読んだことになる。我ながら、気の長い話ではある。いや単に無精なだけか。  「場所」あるいは「場」の問題を考えていこうとする上で、著者のトポス論や、西田幾多郎の「場の論理」を無視して通るわけにもいかない。しかし、何しろ相手が悪い。さっぱりわからない。私はハイデッガーを苦手としているのと同様に、西田幾多

#47:木村敏著『自分ということ』

 木村敏著『自分ということ』(ちくま学芸文庫, 2008年;原著は第三文明社, 1983年)を読んだ。難解な著書が多い印象の著者であるが、本書は比較的読みやすいと思う。特に、一般向けの講演の速記録に基づいたという「『間』と個人」は平明でわかりやすい。  本書に収められた文章を貫くテーマは、「〜というもの」と「〜ということ」の区別と、その区別から立ち上がってくる「自分」あるいは「自己」についての理解のあり方である。「自分ということ」は、人と人との「あいだ」で、時間と時間の「あ

#45:古田徹也著『はじめてのウィトゲンシュタイン』

 古田徹也著『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス, 2020年)を読んだ。著者は、私が近年最も注目している哲学研究者の一人。著者のことを初めて知ったのは、ほんの数年前の新聞記事がきっかけ。それ以来、『言葉と魂の哲学』(講談社選書メチエ, 2018年)、『不道徳的倫理学講義 人生にとって運とは何か』(ちくま新書, 2019年)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書, 2019年)と読んできた。  本書は、ウィトゲンシュタインの生きた軌跡をたどりつつ、

#44:高橋源一郎著『「読む」って、どんなこと?』

 高橋源一郎著『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版, 2020年)を読んだ。これは「危険な」本である。もちろんいい意味で。「はじめに」、「1時間目」、「2時間目」・・・と学校の授業のように進む著者の講義に引き込まれるうちに、気がつけば、読み始めた時には予想もつかなかった場所へと導かれる。「読む」ことの多重的な意味が、著者の狙い澄ました見事な企みの現れとして、読者の眼前に示される。んー、参った。参りました、というのが素直な感想。  本書を読むことで、自分はどのように「読

#43:佐々木隆治著『マルクス 資本論』

 佐々木隆治著『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想』(角川選書, 2018年)を読んだ。Eテレの番組「100分 de 名著」の今月のテーマはちょうど『資本論』。良いタイミングだと思って読んでみた。分厚いうえに、経済学の素人にとっては、けっしてわかりやすいとは言えなかったが、なんとか読了した。  マルクスの思想には昔から興味はあり、時々思い出したように、ちょこっとずつかじってはみるのだけれど、なかなか噛み砕けない。いつも、わかるように思える部分と、さっぱりわからない部分とが

#42:岸政彦著『NHK 100分 de 名著 ブルデュー ディスタンクシオン』

 岸政彦著『NHK 100分 de 名著 ブルデュー ディスタンクシオン』(NHK出版, 2020年)を読んだ。昨年12月に放映されたEテレの番組も視聴した。著者の本は、これまで、『断片的なものの社会学』(朝日出版社, 2015年)、『はじめての沖縄』(新曜社, 2018年)と読んできて、その仕事の姿勢に対して勝手に親近感を持ってきていた。  ブルデューの名前と「ハビトゥス」「文化資本」という概念について予備知識はあったものの、今回番組を視聴し、本書を読むことで、基本的な部

#41:斎藤環著『生き延びるためのラカン』

 斎藤環著『生き延びるためのラカン』(ちくま学芸文庫, 2012年;原著はバジリコ, 2006年)を読んだ。昔から、ラカンには興味があるのだが、何を読んでもあまりわかった気がしない。だいぶ以前に、スラヴォイ・ジジェクの『事件! 哲学とは何か』(河出ブックス, 2015年)を読んで、一瞬だけラカンについて何かが少し分かった気がしたことがあったが、たぶん気のせいだったのだろう。  本書は、著者の擬態的な(?)文体が私には相性が悪いが、内容そのものは面白く読むことができた。著者が

#40:エーリッヒ・フロム著『生きるということ』

 エーリッヒ・フロム著『生きるということ』(紀伊国屋書店, 1977年)を読んだ。原著の刊行は1976年。フロムの代表的著作の一つと目される本だが、恥ずかしながら今回が初読。  本書のテーマは、原題(”To have or to be? ”)に示されているように、「<持つ>存在様式(to have)」と「<ある>存在様式(to be)」という観点から、現代社会(原著刊行当時の1970年代の社会)とその中に暮らす人々のあり方を検討することにあると言えるだろう。フロムの主眼は、

#39:河合隼雄著『日本人の心』

 河合隼雄著『日本人の心』(潮出版社, 2001年)を読んだ。入手先は中古書店。本書は、さまざまな機会に行われ、さまざまな媒体に発表された著者の対談を中心として編集された本である。そのため、内容的には寄せ集め感と、玉石混交感を抱かせられる面をなしとはしないが、科学と宗教、生と死、日本人の生き方といったテーマに緩やかなまとまりが感じられる本になっている。  中でも、私が一番興味を惹かれたのは、「宗教と科学」と題された、伊藤俊太郎氏と著者との対談である。近代の自然科学の「狭さ」

#38:黒木登志夫著『新型コロナの科学 パンデミック、そして共生の未来へ』

 黒木登志夫著『新型コロナの科学 パンデミック、そして共生の未来へ』(中公新書, 2020年)を読んだ。著者の本は、これまで、『健康・老化・寿命 人といのちの文化誌』(中公新書, 2007年)、『落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から』(中公新書クラレ, 2009年)、『知的文章とプレゼンテーション 日本語の場合、英語の場合』(中公新書, 2011年)、『研究不正 科学者の捏造、改竄、盗用』(中公新書, 2016年)と読んできた。いずれも学ぶことの多い内容で、著者は私にとって

#37:國分功一郎著『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』

 國分功一郎著『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(講談社現代新書, 2020年)を読んだ。この本は、もともと、『NHK 100分 de 名著 スピノザ エチカー「自由」に生きるとは何か』(NHK出版, 2018年)として出版されたものに新たに一章を書き加えて再構成されたもの、とのことである。  私は2018年に放映された当時にNHK・Eテレの番組を視聴し、底本となっている本(というか冊子?)も読んでいるので、実質的には再読に近い形になる。番組を視聴したときも、元の本を読

#36:久野収・鶴見俊輔著『思想の折り返し点で』

 久野収・鶴見俊輔著『思想の折り返し点で』(岩波現代文庫, 2010年)を読んだ。これは元々、「朝日ジャーナル」に分載で連載されたお二人の対談を収めた本とのこと。対談が行われたのは1989年後半から1990年前半にかけての時期で、原本は1990年に朝日新聞社から刊行されたとのことだ。  私が鶴見俊輔氏の本や対談、座談を読むようになったのは、ほんのここ5〜6年のこと。もっと早くにその思索と人物に触れておけば良かった・・・と悔やむ気持ちが強いのだが、それ以前は積極的な関心を抱く