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#37:國分功一郎著『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』

 國分功一郎著『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(講談社現代新書, 2020年)を読んだ。この本は、もともと、『NHK 100分 de 名著 スピノザ エチカー「自由」に生きるとは何か』(NHK出版, 2018年)として出版されたものに新たに一章を書き加えて再構成されたもの、とのことである。

 私は2018年に放映された当時にNHK・Eテレの番組を視聴し、底本となっている本(というか冊子?)も読んでいるので、実質的には再読に近い形になる。番組を視聴したときも、元の本を読んだ時も、非常にわかりやすく、刺激的で、ワクワクさせられたが、今回もやはりまた同様の経験となった。

 本書の中で最も考えさせられるのは、著者が解説するところのスピノザにおける「自由」についての考え方である。スピノザにとっての「自由」は「意志の自由」ではなく(スピノザにおいては「意志の自由」は否定されている)、個人に本来備わっている「力」(スピノザの用語では「コナトゥス」つまり本質)がより現実化して発揮されていくこととして考えられているとのことである。私たちは、さまざまな経験(スピノザの言う「実験」)を通して、本来の自分らしい自分を実現していくことで、より「自由」になっていくという考え方が、その基本線であるようだ。

 上のようなスピノザの考え方は、私にはとてもしっくりくる。学校や社会が私たちに突きつけてくる課題を、より効率的に処理し、解決することが、今の社会の主流の価値であるとするならば、それに対して私は、それぞれの人が、自分の想いや願いや考えを他者との間でやりとりすることを通じて、より自分らしく他者と共にいることができて、より自分らしく行動できるようになっていくこと、別の言い方をすれば、他者とともにある自分のあり方を新しく生み出していくこと、経験の可能性を広げていくこと、「心の可動域」を広げていくことに、私たちが社会の中で暮らし、生きていくことの価値を見出していきたいと考える者である。

 本書で著者が述べているように、スピノザの考えたことについて学ぶことは、「ありえたかもしれない、もう一つの近代」を具体的に思い描く努力の大きな助けになるかもしれない。そのような目で見るならば、「もう一つの近代」は、現在の社会のあちこちにおいて、部分的にはずっと存在し続けてきているのだが、十分な注目を集め続けることがないままに、繰り返し見過ごされてきているのかもしれない。現在の社会が引き継いできた良質な成果を廃棄してしまうことなく、「もう一つの近代」が孕む建設的な可能性を組織化して実現にもたらしていく道筋について、考えを馳せ続けたいと思うし、自分にできることを探し、試み続けたいと、改めて思った。

 著者によれば、スピノザの考えでは、認識することには主体の変容が伴うということだ。新たに本書に書き加えられた第五章では、一般にはそう受け取られていないデカルトにおいても、認識に至る「精錬の歩み」の契機が重視されていたことが指摘されている。認識=主体の変容=「精錬の歩み」は、一挙に起こることでも、効率的に促進しうるものでもなく、時間のかかるものでしかありえないだろう。そして、そうした「精錬の歩み」は、デカルトの場合がどうであったかはわからないが、一般に、他者との対話や他者が残したテキストとの対話を通じて、それに触発されて自分自身が変化していくことを通じてでなければ、なしえないことであるように思われる。