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茶をしばくとは、関西地方で"お茶しに行く"ということ。

高校卒業後大阪に出た私は友人の
茶しばきに行こかー
になかなかの衝撃を受けたものである。

お茶をしに行くというのは広く使われるが、実際にお茶を飲むわけではない。
いや、お茶を飲むこともあるが、ほとんどが軽い飲食をしながら歓談するというものだ。

そくらてつお氏に改めてそのことに触れられ、はっとした。
日本のみならずティータイムと言いながら、実際にはティーを飲んでいないということもありそうな気がする。

お茶の時間というものは、私は実家が茶問屋だったため10時と15時に必ず家族でお茶を飲むというのが日常だった。当たり前にあるものだったし、茶畑の作業でも10時と15時にはみんなで小屋で茶を飲む。
色々お喋りしながら茶菓子をつまみながらの茶を飲む時間だ。

きっと昔は畑仕事の休憩などに(これは割と今でもある光景かもしれないが)そうやって飲んでいたのだろう。
昔と言っても、元々中国から渡ってきた時は薬的な位置付けにあったり、その後は貴族が嗜むような時代もあったので、割と近年ではあると思うが。

お茶するという言葉のみが残り、実際にお茶を飲むという選択肢は現代では減ってしまったように思う。
反面ペットボトルのお茶はほとんどの人が飲むだろう。
いつしかお茶は淹れて飲むもの、というところから離れてしまった。

お茶というものを仕事にしていると、なかなか奥が深いのでその深みにハマってどんどん沼ってめっちゃおもしろい!となってしまってい、なぜお茶という選択肢が減っていったのか、お茶を選ばない理由ということについて客観的視点というものがなくなってくる。

マイナスな面に関してもそうだが、魅力というのを伝えるのにも、その視点が必要に思う。

この度一見縁がないように思える哲学を交えることによって、なにか私にとって見えるものがあるのではなかろうかと、そくらてつお氏をお誘いして、哲学とお茶の公開交換日記のようなものを往復書簡としてnoteにて始めることとなった。

違和感を持つこと、をそくらてつお氏に今回注目させていただいた。
やり取りでも、文章でも、私にはない視点におっと思う。

私の視点にどのような広がりがあるのか、非常に楽しみである。

かみや園+

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