お茶には淹れ方があり、飲み方がある。作法、マナーを守るということは、それに抗わず、不可逆的に不自由を選ぶということである。門外漢がその道の様式美について口を挟むことは慎みたい。ただ、ペットボトル飲料がどこの店にも規則正しく積まれている様を見ると、ペットボトルの構造はいたってシンプルで、キャップの開閉に注視すればよい。後処理は、所定の仕方に従えばよいのだが、不法投棄が後を絶たない。深刻な環境問題に発展している。モラルハザードの身近な一例ではないだろうか。茶器から湯呑み、そしてペ
お茶の間という概念は消えかかっているのだろうか。 お茶の間の元々の由来は茶室であり、現代で思い浮かぶ意味合いでのお茶の間は明治時代以降らしいが、お茶の間のルーツを辿ると、ひとつの説として囲炉裏にいきあたるようだ。 囲炉裏を中心に、食事をし、語り合い、茶を楽しむ、といったことから、茶の間。 直接お茶がどうこうというよりは団欒の場所としての意味合いが強いようだ。 が、その頃の飲み物は茶が中心であったのだろう。 現代でいえばリビングということだろう。 確かに今や家族でさえごは
お茶の間の皆さん、と呼び掛けられなくなった。リビングダイニングキッチンの間取りのせいだろうか。フローリングに、IHクッキングヒーターと、今自分が日本の家屋に住んでいるのかさえ不安になる。お茶の間にテレビが一台在り、一家の大黒柱たる父親がリモコンという権力装置を用いた家父長制的な色合いは、令和の時代には消失している。世のお父さんは、今日ぐらいノンアルにしときなさいとお母さんに牽制され、息子が大画面のテレビでゾンビを撃ち殺すゲームに熱狂し、テーブルにはエナジードリンクの空き缶が並
お茶はその歴史の中、最初こそ薬という位置付けであったが、今は嗜好品だ。 日本にはお茶の景気のいい時代もあったそうだが(祖父の時代)、下降線を辿り続けている。 ペットボトルの需要は多分今のところはとどまるところを知らないといった感じだが、対して茶葉の需要は減っていく一方である。 (時々、ペットボトルのお茶との違い云々…と言う人もいるが、ペットボトルのお茶も美味いと私は思っている。) このところの物価高とか不景気を思うと、正直あってもなくても困るものでもない(ペットボトル以外
昭和から平成にかけて、男性が女性をナンパする時の誘い文句は、「お姉さん、俺とお茶しませんか?」だったとゴシップ雑誌に書いてあった。それはあくまで、導入に過ぎない。ナンパなどしたら通報されてしまいそうな、いたいけな私にも分かることだ。目をギラギラさせて茶室に行く輩など、どうかしている。時は令和である。働いても生活はきついまま、余暇もなく預貯金もなく、買い物は安価に済ませたい。国民の切なる願いである。消費が落ち込み、市場規模は縮小され、企業は淘汰されるのみ。グローバル化した社会で
茶をしばくとは、関西地方で"お茶しに行く"ということ。 高校卒業後大阪に出た私は友人の 茶しばきに行こかー になかなかの衝撃を受けたものである。 お茶をしに行くというのは広く使われるが、実際にお茶を飲むわけではない。 いや、お茶を飲むこともあるが、ほとんどが軽い飲食をしながら歓談するというものだ。 そくらてつお氏に改めてそのことに触れられ、はっとした。 日本のみならずティータイムと言いながら、実際にはティーを飲んでいないということもありそうな気がする。 お茶の時間とい
お茶ぁさんに対しての反抗期は無かったんですけど、お茶は私に対して反抗していたんじゃないかと思う時があるんです。「自動販売機で炭酸買うかね」とか、「お茶の方がヘルシーでそんなに高くもないぞ」とかね。静岡県で仕事をしている時に、ブラックコーヒーばかり飲んでいたのは、Teaサイドとしては「やってくれたね」と。幼少期の身体をお茶とご飯で作って来たのに、そこそこのシティに出ればそんな感じなんですねと、見透かされているようで。やっぱりお茶は、マザーシップなわけで、お茶とお菓子をつまみなが