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日系カナダ人の歴史にフォーカスした書店。Canadianizedされた日本文化の魅力/バンクーバー書店レポvol.13


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今日の取材はNikkei NATIONAL MUSEUM&CULTURE CENTREにて。少し早く着いたので、2Fに上がりぶらぶらと歩く。何度か訪れた事のあるそのフロアには、日本人が初めてカナダに移った1877年から現在に至るまでの、日系カナダ人の歴史が展示されている。

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「魚はものすごいほど大量にいる。実際に船の中に飛び込んでくるんだ。こっちに来てくれ、そして一緒に漁をやろう。」
-久野ギ〜イが故郷の見尾村の村民の仲間に1888年に言った言葉

「指紋を取られ、写真を撮られ、外国人登録証が発行されました。私のカードに『カナダ生まれ』という印が押されました。それは混乱の時代だったのです。私にとって最悪なことは、自分自身の国に敵の外国人だと宣言されたことです。私は愛国心を持ったカナダ人でしたが、敵の顔をしていたのです」-メアリー・ハラガ

「どんな不当な事でも、今までの命令には全部イエスと答えて来ました。。。でも家族がばらばらに分かれよという命令には堅くノーと言います」-1942年4月15日 二世集団 避難グループ

「兄弟たちで壁の割れ目に新聞紙を詰め込みましたが、夏の猛暑も冬の寒さも防げませんでした」-アキ・ホリイ

壁には、その時代時代の日系カナダ人の言葉が飾られている。かつてアメリカン・ドリームならぬカナディアン・ドリームを求めて海を渡った日本人たちは、アイデンティティに揺れながら、激動の時代に飲み込まれていく。

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日系博物館がスタートしたのが2000年。2019年に多大な寄付もあって大リニューアルが行われた。2004年から博物館内にあるミュージアムショップを担当するNichola Ogiwaraは、そのスペース内にある書店も管理する。

「日系カナダ人の歴史を知ってもらう機会を提供し続けてきたし、この数年でも国内外問わず多くの人とその歴史と文化を共有できたと実感しています」

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日系カナダ人の歴史、日系カナダ人の作家による文学、そして日本の作家が英語に翻訳されたものに絞ったセレクトは、すべてNicholaによるもの。

「あとは自分たちでも展示のカタログを出版しています。また、本のほかにも、地元の作家によるハンドメイドの陶器や、日本から輸入した食器、雑貨やギフトアイテムなども置いていています」

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場所はダウンタウンから車で30分以上と、少し離れている。
つまりはぶらっと訪れる場所ではなく、日系カナダ人の歴史と日本文化に興味がある人たちが自ずと集まってくる。
「中には日本から年に1度、大学の教授がやってきて、資料としてごっそり購入していくなんてこともあるんですよ」

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ふと店内を見渡すと、かの有名な『バンクーバーの朝日』のTシャツやキャップが飾ってあった。
「ローカルのメーカーと組んで作ったんです。日本では、コミックや映画にもなりましたよね。こういうヒット作品が、日系の歴史を多くの人に認知してもらえるきっかけになります。ほかにも、Mark Sakamotoのベストセラー『Forgiveness』、これはぜひ読んで欲しい! 戦争中日本で捕虜になったカナダ人男性と、カナダで日系カナダ人として全てを奪われた女性の子ども同士が結婚するという、実話を元にした物語です」

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美術館、出版社、そして作家たちと密なコミュニケーションを取りながら、常に新しく出版される本にも注意を配る。また、年に1回、日系カナダ人だけでなく世界中の”Nikkei”に関わるスタッフが集まって、情報交換の場も持っているそう。

「カナダでは、ほかにもトロントやニューデンバーに日系コミュニティがあって、オンタリオの日系文化会館はブリティッシュコロンビア州よりも大きい規模を誇ります。戦前はBC州のコミュニティがいちばん大きかったんですけどね, 戦後は日系カナダ人は東に移動して、バンクーバーに戻ってこられたのは少数でした」

その時代背景は、筆舌に尽くしがたい。以下、少々長いけれど日系博物館内の展示から当時の様子を引用する。

「1939年英国はドイツに宣戦布告をし、カナダは早々に参戦しました。日系カナダ人の多くが物資や缶詰工場から食料の調達、そしてヴィクトリー債券に投資してカナダに貢献しました。しかし日本の戦争における役割が増すに伴い、日系カナダ人に対する人種差別は激しくなっていきました。日系カナダ人の忠誠心が疑われ、カナダ軍への入隊は禁止されました。1941年12月7日に日本の真珠湾攻撃後、カナダは日本に宣戦布告し、戦争法案条例が敷かれました。

(中略)戦争法案条例によって(市民の年齢に関わらず)日本人の血統を持つ全ての人は、カナダの『敵対外国人』であると宣言されました。全ての日系人は登録が義務付けされ、戒厳令のもとで生活を強いられました。1942年1月に『すべての日系人種』は100マイルの『保護地域』から移動するようカナダ政府から勧告されました。

(中略)日系の家族たちは速やかに、家や財産を後にして、持てるだけのものを荷造りしました。敵財産管理局が船、自動車、ラジオ、カメラなど危険であると考えられるものを没収し、また全ての土地や資産の信用保管を任されました。保管された財産は後になって安価で売り飛ばされました。日本語新聞、日系のビジネス、日本語学校は閉鎖され、日系人は仕事を失いました。この大規模な強制移動は、長年に渡る人種差別の結果であり、明らかに人権の剥奪でした」
ーNikkei National Museum

当時の収容所での暮らしは、酷いものだった。けれど、笑顔に溢れた家族の写真や、強い意思を感じさせる凜とした若者たちの写真が、いくつかの本の中に収められている。

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「それと、松茸ご飯だったりおひたしだったり、伝統的な日本料理を日系カナダ人流に上手にアレンジしていて、そのユニークなレシピも記録に残っています」

たくましい。自分は何者で、どこから来て、これからどこへ行くのか。アイデンティティを剥奪され、それでも前を向いて生きていく。最後に心に残っているたものは何だったのだろうか。取材が終わって、もう一度2Fフロアを歩いた。とある言葉に、なんとなくその答えがあるような気がした。

「’正義’という言葉について考えてみる。正義(Justice)の概念を「JUST=だけ US=私たち」と考えている人が多すぎる。自分たちだけを見ていては、正義は自ずからやってきません。絶対にきません。」
ージョージ・ワット、ヌー・チャー・ヌース部族理事、1988年バンクーバー保障集会にて

💡DATA

Nikkei National Museum & Cultural Centre  

6688 Southoaks Crescent, Burnaby, BC V5E 4M7

https://centre.nikkeiplace.org/



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