黄土の精酒・スーズ小史〜パリのエスプリの薫り〜(旧ブログ2019/06/19付記事転載)
我がエスプリを震わせてやまない美酒たち。
それは即ち、アブサンであり、幾色ものリキュールであり、《殊更に強調しよう》エリクサーとしての起源をもつ女王シャルトルウズであった。
ここに、この度は、スーズを加えることとしたい。
この機知に満ちた酒は最早説明など要らぬと存ずるが、何を隠そう、我が敬愛してやまない史上最大の個人陶酔者、偏執狂、油彩王であるサルバドール=ダリと、並々ならぬ創作欲と精力を持ち続けた美術史に最大の影響を尚も及ぼし続けるパブロ=ピカソが愛飲した酒であったというこのとんでもなく麗しい史実である。
芸術家はアブサンを嗜んだ(嗜むという優しい表現が相応しくなければ、戯れた、或いは狂い饗したetc...)。禁制後はパスティス、アニス酒を。これを二分する形で、芸術家のみならず、エスプリにとんだパリっ子を虜にしていたのが、何を隠そう、スーズなのである。
今回はこのスーズに、最大限の賛美と、称揚と、少しの小史を紹介する機会を与えてみたいと思ふ。
では、まず、スーズとは何か。
我が国のバーテンダーは、事あるごとにこのスーズを「黄色いカンパリ」と形容する場面があるだろう。
これは言い得て妙な表現かと思える。
我が国では、スーズは殆ど大衆には膾炙していないと言い切ってよく、この黄土の美酒よりも、赤虫色にギラめくカンパリこそ認知の主体であり、この赤よりも赤いカンパリと、黄色のスーズは、実は主原料が同一なのである。
よってこの異名は日本に於いてはスーズに相応しいと言える。スーズを愛飲する芸術家気取りの私にとるは、カンパリをこそ、「赤いスーズ」と呼び慣らして、この二つの兄弟を相対化したいという欲に駆られるのだが。
この定義でいけばフェルネット・ブランカは「黒いカンパリ」とでも呼んだらいいのだろうか。
さて、何が同一の原料なのかといえば、
「ゲンチアナ(Gentiana)」というのがそれである。
学名はgentiana lutea。リンドウ科の植物の一種だ。
夏に黄色い花を咲かせる、ノルマンディー地方や、ヴォルヴィックなどのミネラルウォーターを産出することでも有名な肥沃の山脈牧草地帯であるオーベルニュ地方の高地に自生する多年草で、
その根や茎には苦味健胃作用があり、それらの地域では古くから胃腸薬として用いられてきた。
ゲンチアナは大きく成長するのに20年もの歳月を要するという。その間、地中にしっかりと根をはるのだ。そこで、この根を掘り起こすためには、少々大げさに行われなければならない。
ゲンチアナ師と呼ばれる専門職があり、特別な器具を使うという。
この苦い根を主体にスーズというリキュールは生成される。
まず、根を中性スピリッツに浸漬し一部を蒸留、残りは抽出を続け、後にブレンド、これにバニラ、オレンジの他3種類の香草(明かされていない)を入れ熟成させる。そして砂糖を混ぜ、加水し漸く完成だ。
これを嗜好品のリキュールとして販売を開始したのが1889年のこと。印象派からベルエポック、世紀末芸術へと美の潮流は受け渡されるまさにその時に、華々しく登場、スーズ社は画壇やスポーツイベントのスポンサーに積極的になり、1889年と1900年の万国博覧会で金賞を受賞したことも最も大きな追い風となり、一躍この黄土酒はエスプリの街パリの寵児となっていった。
上記の絵は『コップとスーズの瓶』。キュビスム的な多視点技法と、「パピエ・コレ」というシュルレアリスム的なコラージュ技法に貫かれたあのピカソの1912年頃の作品。この頃には既に芸術家たちに愛飲されていたようである。1915年にはフランスでもアブサンが飲めなくなるから、緑から黄色へ、画家たちの愛玩は移り変わっていくかに見えた。
しかし、歴史とはいつ何時も皮肉なもので、スーズにも試練が訪れる。
1914年に始まる第一次世界大戦がそれである。
原料の入手難から、それまでは34度だった度数を20度にまで下げて販売せざる終えなかった。
ただ、このように度数を下げたことで、戦後のニーズにははまり、この西欧米文化の絢爛を極めた「狂騒の20年代」、1930年代には再びブームが到来、フランス全土にこのエスプリは歓迎された。
歴史を知る人は、このままそう順調にはいかないことを先んじて知っているだろう。
そう、第二次世界大戦がそれであり、華々しい時代劇はあっという間に幕を閉じるのである。
スーズの生産量は激減、またもや原料節約のために度数は更に下がり16度とし、この苦境を凌いだ。
戦後、スーズの消費量は回復の兆しを見せたが、エスプリに富んだとは言えないアプレ・ゲール(戦後派)の若者たちはリキュールではなくウィスキーなどを愛飲するという風習・所謂ヌーヴェル・ヴァーグ旋風が巻き起こる。加え1962年の仏政府によるウィスキーの輸入制限撤廃が追い打ちをかける。
これにより、リキュール大国だったフランスにも国際スタンダードの波は打ち寄せ、伝統的なリキュールやアペリティフは大打撃を被り、大半はマイナー・ブランドに後退したり、消失してしまうブランドもあった。
スーズもまた然り、と思われたが、黄土には尚も黄金に輝く光明が差し込む。
「スーズを失うことは、フランスの文化遺産の一つを失うことと同義である。」
当時のぺルノ社の社長エマール氏の言葉である。
こうして1965年、ぺルノ社はスーズを傘下に収めることになった。
アブサンの歴史を見ればわかるが、スーズ社同様ぺルノ社も歴史に翻弄され辛酸を舐めた経験のある会社である。この同情はフランスの文化遺産を頑なに守ることに成功した美談に列せられてもいいだろう。
その後ぺルノ社はライバルであったリカール社とも大同合併を果たし、フランスを代表するコンツェルン的大企業として今も世界に名を轟かせ、フランスのエスプリの雄として君臨している。
こうしてスーズは今や僕らの傍らに。
スーズもアブサンもシャルトルウズも、歴史を眺めた後にグラスにそのリキッドを注げば、ここに存在すること、簡単に日常的に飲めること自体が奇跡にすら思える。
そして今日も、あたかもピカソのように貪欲に、ダリさながらに諳んじながら、ロートレックの如く軽快に筆を奔らす。
インスピレーションの失われた現代の画家にこそ、美酒や霊酒はやはり必要なのである。
【参考文献】
『リキュールの世界』福西英三、河出書房新社、2000年
⇨本稿の歴史的記述のほとんどはこちらの文献に依存している。僕らからすれば遠い時間を生き、インターネットが普及して間もないころに書かれたにも拘らずのこの情報量と、広範に及ぶ深い教養は、私淑に値する。
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