「スコレー世代」の綴る文章 『片仮名の力』

今は昔、『構造と力』なんぞより未だに力を持ち続ける『近代文学の起源』を著した柄谷行人は、世紀末にその『終わり』について語ることになる。ゆとりないし「スコレー」世代のぼくたちにとって、文学とはすでに、ポスト村上春樹なのであり、以後、それこそリゾーム的に生成した「小説家」は星の瞬く数あれど、「文学者」たる人物として思い浮かぶ人はなく。「文学」が社会equal国家に果たしてきた役割は既にとうに終わっていたのである。それの代替が、芸能TVなのかYouTubeなのか、音楽なのか、演劇なのかなどはさておきつつ。

しかし、活字は社会にありつづける。日本語の擁する茫漠なまでのボキャブラリーは無限に眼前に横たわりつづける。鉛筆がタッチペンや指そのものに、キーボードにとってかわろうと、舵を取り続けなければなるまい。

そして、ポスト村上春樹の時代に、メタファーの魔力と、魅惑と、衒学的な装飾性と、そしてカタカナの独自性、背反性に私は目をつける。
某大臣がカタカナで物事が表現されつづけることに対し、「日本語でおけ」と言ったが、かたや某知事のように、アウフヘーベン、ソーシャルディスタンス、アラートと、カタカナを繰り出す。
私もそんな知事と同類でカタカナが大好きな民の一なのだ。外来語を外来語として、微妙に変質させたり多義になりつつも、その本質は保存されたまま日本語の語彙に組み入れられプールされる。
拙稿も、この度カタカナが複々数回用いられる。メタファーにメタファーを重ね、フィクション性に富ませ、そして且つそれは我がメルクマール=道標に過ぎない。

久々に文章を書いた。カフカの『城』や金井美恵子の『岸辺のない海』が役に立った。思念的座礁。魚類から両生類へ、エウステノプテロンからイクチオステガへ、思念の海から原語の森へ、地中から再び言語が、這い上がって、きた。

人間こそ性善説で、言語が性悪説に囚われるという千葉雅也の構図、雑感に共感する。其れこそがまた、自分自身に於いて、より、留まることを知らず未来永劫何回帰もして、言葉を先鋭化させるレゾンデートル=理由である。それはアーヴァンギャルドにかつオルタナティヴだが、能動的なノスタルジイでもある、言語特有の背反性の間に住まおうとする前頭葉の帰結なのだ。

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