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未だ漆黒の「驚異の部屋」に踏み込む前に。敬礼などしないが、アドルフに告ぐ。

いつものことなのだが、執筆、と大それた表現を振り翳すつもりは毛頭ないが、の意欲が激減している。これは僕にとっては本当にもう茶飯事で、その勾配の差の歴史が我が人生と言っても過言ではない。下がるときは下がるのである。そんなときはいつだって、インプットに急ピッチに舵を取るのだが、この度はそれすらも減退気味だ、何故だ、何故なのだ…? やはり、ストリーミング動画&音楽サービスがいかんのである。

読書も「執筆」も、ながらすることは不可能だ。いくら「シラけつつのり、ノリつつシラけ」ようが、ADHD障害であろうが、多彩な学びの仕方を提供する世の中になろうが、読書は読書、執筆は執筆なのだ。まぁだからこそ、これだけが本物たる根拠を説明するだけの十分すぎるワケである。

あえてひたぶるに、畝るような文体を書いてみたい。
それはどうせなら、さも薄暗い、天蓋の閉じた森に踏み入るための、景気付けとして、サーチライトとして、歩哨として、予防線として。

これまで、我が前頭葉には常に三色旗がはためいていた。それは人間の仕組みに添うように、静脈と動脈に突き動かされたものだった。激動の戦歌を高らかに歌いながら、地中海岸のマルセイユからやってきて、北海のル・アーブルに抜けるように、鉄どころか、しなやかに棚引くシルクのレースカーテンのように。アブサンの白濁だけが夕日に黄昏の精神を喚ぶ如き憂いの日に、緑の妖精とともに、足元もおぼつかないほどに酩酊した、だけれども、されども没頭する真っ新な表紙の思想の書と共に。メデテレニアンをからがら渡った先にはサラセンの地、アルジェリアがあるが、この動脈の赤こそが血の色に染めた証の地に、オアシスの緑が、転じて苦蓬の浸漬された不退転の蒸留酒の滴が津波のように押し寄せたなら、それは平和の白を生成するだろうか、オリーブを咥えた鳩がその内海を再び舞い戻り、動脈と静脈の間に、アルザスのいや、ラインラント非武装地帯を、さらに踏み込むならばハプスブルクの血を産み宿す永世中立国にその囀りは届くだろうか。

シャルルマーニュが大の字で寝そべった、その女神エウロパの大陸はやがてトリコがロールした。三つ巴の歴史の開闢である。そしてその左岸はまたトリコロールし、マルエイエーズがやがて南部から北上し、人民と国王の血を持ってして、聖体を政体へと転覆したのだったが、はて、かの右岸はどうしていたのだろうか。

世界システムからは遅れた地、それはラインとエルベの濁流に挟まれた暗澹たる地、ザウアークラウトと、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトのシフトと、ユンカーの肥大化する地…鉄と地で纏め上げたカイゼル髭の哲人?は統一の夢を半ばにして、正真正銘のカイゼル、しかし地球儀で遊んでいるだけの幼少期から未だ抜け出せぬ青二才に遂に放されたのだった。

私の前頭葉だけが、今、ドイツの国境に差し掛かる。その歩みの轍は、かのマリー=アントワネットの丁度真逆をなぞる。漆黒の森に踏み入れる。『海辺のカフカ』を読了したときから無意識的に始まっていたこの文物を廻りめく精神の旅、ネアンデル谷に降りてまで、突き進む功利性とは何か。20世紀の『パサージュ論』を描くなら、それは『古城のカフカ』という題名がいいのではないだろうか。その仮説を紐解くために、ノスタルジアとしての独逸、神聖ローマ帝国とタイムトラベルを行う。右手に語学書と、左手にはホルバイン社製の油彩具を携えて、観念論のシュヴァルツヴァルトへ、思考の森へ。。。

自己流のカルテをここにメルクマールしておこう。

西方の法王から頂戴した題目三つ。それ即ち、「薬草」「医学」「宗教」。「仏」と「瑞」を足す。東方から更に「錬金」「愛智学」「藝術」をそそくさと持ち出し「神羅帝国」で包む。其等を接木し誕生した【未回収の『ライン同盟』】こと君は《アブサン》という名の魔本を止揚・錬成するに到る。

総てはカフカの如き世界観に、ルドルフ二世の『ヴンダーカンマー』に、フリーライダーするためだけの、鉛を黄金に変えるための、勉強勉強糞勉強(武者小路実篤)に邁進するための(比喩)に過ぎない。これが蛇行を意図する我が流儀としての文筆である。これを機に、怠惰を脱却できればいいのだが。


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