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口惜しい。


口惜しい、という感じだろうか。

いま人間社会全体としていえるのは。

いつもどおりの日常がおくれない。

いつもどおりなら、〇〇だったのに。


いつもどおりに咲いて、散っていくサクラ。

いつもの景色に、いつもの私たちだけがいない。

なんじゃいっ、このカッコツケ(笑)


先日の競馬の桜花賞。画面を観ながら、

阪神競馬場、無観客開催の雨のなかで

今年もひっそりと、しかしながら、

いつもどおり力強く、華やかに、

桜は咲いていました。


雨のなか、牝馬クラシックの開幕レースを

一生懸命、人馬ともに泥んこになりながら走って・・・。

ねぇ・・・・まぁ悔しい、口惜しい(笑)


戦後から世代を超えて、平和な日常を重ねて、

当たり前になっていたぶんだけ、

私たちの落胆も大きいのだと思うんです。


ただ、各地域で、それぞれ工夫を凝らして

やれることをやれるだけ、がんばっていますね。

みんなで協力していこうという機運も感じます。


この新型コロナに端を発したさまざまな影響力。

連鎖しまくりながらの負の部分が多いですね。

ただ立ち往生せず、工夫して前に進む人たちは、

以前よりもたくましさを得て、なんとなくだけど

少し変わった、という人もいるのではないか。


考えてみると・・・

人が出られなくなった。

出られないということは、

待っていても人は、そこにはこない。


じゃあ、どこなら人は来てくれる?

それはリアルな空間か、ネット上の空間か。

どうしたら、来なくても人に届けられる?

お弁当スタイルで?配達で?業者頼んで?

でもいろんな人を経由すると感染リスクは?


そうやって考えて、話し合って想像して。

未体験ゾーンを息継ぎなしで泳いで渡る。

やるしかねぇ、渡るしかねぇとなると

やっぱり人間動きますよ、こころと行動が伴う。


おぼれることもあるだろう。

そのまま息絶えることもあるだろう。

しかしそのままなにもしないのでは、

苦境は変わらないのだからと、人は闘う。


ただ、ひとつ、キニナルコト。

それはいまガマンして頑張っていれば、

いつかまた「元の状態」に戻せるだろうという、

その期待の「土台」の話です。


その土台は無意識のうちに引きずり、疑わない

「昭和の高度成長時代」のシステムの延長上にある

ということです。


これをアンインストールしていない人がほとんど。

コジャレたカタカナ使うのを、お許しを(笑)


口酸っぱく、よくこの視点を書いていますが、

やはりこの視点で改めていかないと、

私たちの社会がいくら工夫してもどこかで必ず、

この問題にぶつかって、つぶされてしまうんです。


見た目や扱うものが時代によって変わっていく。

しかし、私たちは大事な判断を過去の成功例にならう。

その強い固定観念が、どうしても拭いきれていない。

古い時代の成功例を無意識に踏襲してしまっている。


これはなかなか気づけない部分であって、

〇✕問題で、なんの疑いもなく〇を選ぶけど

実は、正解は✕、みたいなことです。


その際に、意識すべきは

いつも当たり前にこうしてるけど、

こうしなかったらどうなるんだろう?ってことを

考えることだと思います。あえて。


すると、当たり前にやってたけど

コレなくてもできるよな、とか

コレやらないでダメとはまだわかってないよな、とか。

決めつけてしまっている視点に気づくと思います。


そして、正論ばかりを掲げても人は動かない。

そこも攻めて改善できそうな部分だと思います。

正論酔いをしている人や企業、団体は結構多い。


しかし、すべてその基準でジャッジしていくと

私たちの社会は通気性のないマスクのように、

どんどん息苦しくなるばかりです。

それを感じてるからこそ、乗ってこないんです。


この機会に私たちは一度、立ち止まり

機械のようにオートマチックにこなすのをやめて、

考え直す、当たり前の逆をとる選択を試してみる。

という取り組みをしてみてもいいのでは?


人が当たり前に捨て去ってきた選択肢のなかに、

もしかしたら、解決のヒントはあるのかもしれません。





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