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マスメディアと個人メディアの攻防。


メディアでは希少な何かに

取り組んでいる人を

特集したりしますよね。


地域の特産品や伝統を

代々受け継ぎ守っている人を

特集したり。


フォーカスしやすいから。

ただ世間のほとんどの人は

いまは普通の会社員とかで。


自分が頑張っていることと

つながりが薄かったり。


つながっていたとしても

結果的にスポットの当たらぬ

別の世界の話が多かったり。


マイナーなミクロな業界で

頑張る人には何かとスポットが

当たる、というか当ててる。


大半の人は日々の業務を

粛々とこなすだけで

ヘンな話、主役は限られる。


同じように頑張っているが

大半の人はフォーカスが

当てづらい世の中のしくみで

生きている人が多い現実。


大衆オブ大衆という世界は

メディアにしてみたら

インパクトがないからで。


特集したところで

どうにもならないような

変化のない世界という

評価だからでしょうね。


私たちがひとりひとり

何かを頑張ったところで

何も変わらない世界。


粛々と普通のくらしを

続けるしかない、みたいな。


この状況が続く日本って

やっぱ楽しくはない(笑)


別に注目されたいわけでもないが

無関心ゾーンに入らされる。


しょうがない、そんなもん。

そうやって諦めてきた。


スポットを当てるメディアに

その選択権も主導権も奪われる。


そのあてがい方に従うように

仕向けられて諦めている。

そういう側面もある。


メディアが主導するやり方に

私たちも「なんとなく」従う。


大衆オブ大衆の世界は

つまらなくて変化もなく

ガマンさせられてる気分。


けど、やっぱ何も報われない

みたいな思いが強くなる。


けど(笑)、どうしようもない

と割りきって生きている。


このメディアのやり方

北京五輪でもそうでしたね。


選手が言いたいことを

ある程度尊重してフリーで

発言させようとはしない。


こちらの質問に答えて

こちらの流れに沿って答えて?


と促してメディアの欲しがる

答えを「してくれ。当たり前だろ?」

的な質問の仕方に終始する。


選手から欲しい答えが

かえってこないと

失敗したようにとらえ

また自分の欲しがる答えに

持っていこうとする。


あのヤリクチ、聴いてるコッチも

飽きて、イライラしてる(笑)


昔、サッカーのナカータが

メディアの質問に心を閉ざした

理由に近い感覚ではないか?


いまやメディアの意図が

反映された質問など

もう大衆は飽き飽きして

欲しがっていないんですよ。


けどメディアは

「架空の大衆」を設定して

時代が変わっても更新しない。


架空の大衆が欲しがる

だろうと思い込んでいる言葉を

選手のクチから出させたい。


それをメディアにのせて

大衆に伝えようとしてくる。


いまの時代は選手も

自分のメディアを持つ。


おそらくその先駆けが

ナカータだったと思うが。


だから選手としても

カメラの向こうという

「昭和な意識」で発言を

しなくなっている。


私たちも求めなくなった。

求めているのはマスメディア

だけである。


自分の言いたいことを

自分のタイミングや間で

ちゃんと整理して言いたい。


それが選手の本当の気持ちで

メディア用の、急かされる

ぎこちない発言は本意ではない。


大衆の多くも実は

選手のホンネを

選手のクチで言葉で

選手の納得する形で

聴きたいんですよ。


でもメディアは

自分の立場を利用して

時代遅れのあてがい方を

架空の大衆のため、と振りかざす。


要らん。要らんのよ(笑)

応援している方や

見てくれている方に一言!


いやいや、それは選手も

自分のタイミングで言うから。


大衆は言って欲しがっている

という思い込みや理想論は

メディアの都合良い理屈で。


積み重ねたメディア対応の歴史で

フォーマット化されたやり方に

疑問も持たずに従えと促すのは

よく考えたらおかしな話。


このやり方をメディア自身は

省みることはないでしょうね。


冒頭の大衆オブ大衆の問題も

メディアの選手への対応も

メディアの主導権の握り方に

原因があるように思う。


おそらくこれまで以上に

メディアは細分化されて

効果は薄くなっていく。


マスメディアからミクロだが

個人のメディアにシフトする。

そういう時代に入っている。


この攻防の勝者はどちらだ?

個人が勝つと流れは変わる。

そんな気はしますけどね。














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