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キリトリ社会のヤミ。


編集できちゃうのが

やっぱり、ダメなのかと

最近、そう思うんですよ。


なんでもそうなんですが

切り取って編集してしまうと

よく見えてしまうでしょ?


とにかく加工できてしまうから。

いまの技術や世の中は。


飾る、誇張する、そぎ落とす。

際立つ部分を切り取ると、逆に

そこだけが強調されてしまう。


たぶん、誰でもそうなんです。

私たちの人生の時間の流れは

ずっとリアルタイムで追っていくと

ずいぶんとムダな時間が多い。


多くていいはずなのに、

埋めたがる。


2つも3つも同時にやることで

スキマを埋めないと

コワイのかもしれない。


ほんとはできるならしたい、

飾らない、切り取らないすべてを

自他共に受け入れること。


そう成長していきたいと思う。

まだまだ、死ぬまで成長期(笑)


でも最近はなんでも「動画」でみせて

「動画」で受け取り続けていますよね。

若い人ほど、特にそうでしょう。


ほとんどは「編集された動画」で。

それが常態化してしまっている。


送り手も、受け手も

良いところしか送受信していない。


悪いところをみつけて切り取れば、

悪いところが隠れて見えなくなる。

見えなくなると、気にしなくなる。


まるで悪いところがないのだと、

勘違いしてしまうくらいに。


送り手は悪いところを残してしまうと

受け手はあざとく、悪いところをみつけて

責めるようになる。


指摘して直させるのが気持ちいいのだろう。

良いものを、より良いものをと。

要らんヤサシサ。


動画以外でも、文字もそう。

対面で相手も自分もボロが出ないと

気づけない部分ってあるでしょ?


たぶん、会って話して、

その場で感じるものを

私たちは隠したがる方向に

シフトしてきている。


情報としてあらゆるものを受け取る。

私たちは結果的に、悪いところを

極力、排除しようとする流れになる。


すると、常にハイライトのシーンを集めて

ムダなく簡潔に、伝わりやすくしていく。

イイコトバカリで埋めつくそうと。


常に、完成品を欲しがるようになり、

完成品に美意識を高め続け、弱点を隠す。


家に帰れば、ごみ屋敷。

家は、ホントの自分です。


人間は、どうなると思います?


現代のネット社会の闇(病み)が見える。


失敗を恐れるようになり、慎重になる。

常に安心、安定を追求し続ける流れを

競争して勝ち取ろうとする。

自分を演出しつつ、ソツなくこなそうと。


ミスをしたらいけない。

してはいられない。

見せてはいけない。


私たちの社会の世知辛さが浮き彫り。

許せば、自分も喰われてしまう。


弱みを見せられなくなり、

空気感が暖房で湿り気を失うように

なんだか息(生き)苦しくなっていく。


考えてみれば動画サイトは、

ほとんどが切り取られた

ハイライトシーン。


なんなら、他人がつくったものを

真似したり、勝手に編集したり。

自分が達成感を得た気分にさせるのだろう。


みんな長いと見てくれない、飽きる。

好きなところから何度でも見られる。

繰り返し、繰り返し強調もできるから

印象操作が強まっていく感じもする。


欲しいものをつくり、与えながら

ムリやムダを極力排除していく。


その陰で、切り取って見えなくした弱点は

どんどん陰に、溜まっていく一方。

それでも弱みを見せられない。


ごみ問題、ここにも発生中。

溜まってくよ、ごみ。ヨドミも。


余裕がなくなっていくのでは?

想像すれば、だよなぁと気づく。


瞬間瞬間の判断で正誤をつけ、

別の視点で吟味しようとしなくなる。


相手のテンポに合わせすぎる麻雀みたいな。

ん?違うか(笑)


私たちは普段、すべて正しいと

判断しているわけではないのに。


考えてみれば文章を書くのもそう。

推敲を重ねて整える。


しかし、ちょっと説明しすぎずに

考えたり、想像を誘う余地をあえて

残すのも悪くはない。


その説明を補う余地や、

モヤモヤした余韻が

想像力を引き寄せることもある。


感情のままに書いてみるほうが

伝わることもあったり。

むしろあったかいリアルな言葉。


皆さんにはこの文章で

どんな余韻が残るのだろうか(笑)



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