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翻訳小ネタ/鴨は洞穴を目指すか?

村上春樹訳、レイモンド・カーヴァーの短編集『頼むから静かにしてくれ』に所収の「鴨」The Ducks の冒頭。(太字強調は引用者、以下同様)

午後になって風が吹き始めた。ざあっという雨が風に混じってやってきた。それは鴨たちを湖から飛び立たせた。鳥たちは何かまっ黒のものが爆発したみたいに一斉に飛び立ち、林の奥にある静かな洞穴をめざして飛んでいった。彼は家の裏手で薪を割っていた。そして鴨たちがハイウェイの上を越えて、木々の後ろの沼地に下り立つのを見ていた。
「鴨」
レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳『頼むから静かにしてくれ 2』
中央公論新社〈村上春樹翻訳ライブラリー〉、2006年、p. 85.

洞穴」をめざして飛び立ったはずの鴨が「沼地」に降りるというのは少し違和感を覚えました。加えて、個人的には「林の奥にある静かな洞穴」といわれると鴨が洞穴(ほらあな)で雨宿りしている牧歌的な光景が頭に浮かんでしまいますが、仮に読者がそういうイメージを抱いてしまうならこの訳は失敗……という気がします。

静かな洞穴で雨宿りする鴨(筆者による想像図)

原文は以下の通り。

A wind came up that afternoon, bringing gusts of rain and sending the ducks up off the lake in black explosions looking for the quiet potholes out in the timber. He was at the back of the house splitting firewood and saw the ducks cutting over the highway and dropping into the marsh behind the trees.
Raymond Carver, Will You Please Be Quiet, Please?, Vintage Books, 2009, p. 128.

鴨が目指す「洞穴」(原文 pothole)と最終的に降り立つ「沼地」(marsh)というのは日本語では異なるイメージに思えますが原文ではそうでもありません。というのは pothole というのはたいがい水溜りとか小さな池のようなものを指す言葉で、少なくとも地面に上向きに開いている穴や窪みというイメージだからです。

一般的な辞書を参照するとこんな感じ。

pót・hòle
n.
1 深い穴.
2 (街路・舗装道路などにできた)丸いくぼみ.
3 〔地質〕 地面から垂直に口を開いている洞穴.
4 〔地質〕 甌穴(おうけつ),ポットホール:河床岩石中にできる円筒状の穴.
"pót・hòle", 小学館 ランダムハウス英和大辞典, JapanKnowledge, (参照 2022-05-14)

リーダーズ英和辞典にはアメリカ英語の用法として「自然の窪地に水が集まってできた池」という語義が記載されています。カーヴァーの「鴨」における用法はこれが一番近いのではないでしょうか。

pót・hòle
━ n
深い穴;
(舗装道路の)穴ぼこ,大穴;
陶土を掘り取ったあとの地面の穴;
(熱い鍋などを上げる)鉤の付いた長ひばし;
上面に開口する深い縦穴;
[地質] 甌穴(おうけつ)(渦流で回転する小石が岩石河床につくる);
*自然の窪地に水が集まってできた池
小さな問題[障害]:hit a ~.
「pothole」
『リーダーズ英和辞典』第3版、2012年

ちなみに日常でいちばんありふれた pothole の用法は道路の穴ぼこで、画像検索するとこんな感じに。

Google 画像検索にて pothole を検索

ついでにいえば、鴨が風雨を避けて洞穴(ほらあな)に身を寄せるという話は聞いたことがありませんし、一般的な鴨の生息域に洞穴が豊富にあるとも思えません。誤解を避けるならこの箇所は「林の奥にある静かな水場」とか「林の奥にある静かな池」といった訳でいいのではないか、と思いました。

これを誤訳と呼ぶべきかは微妙なところです。ただし翻訳の品質という意味では、たぶん、このパラグラフでは pothole の指すものと marsh の指すものが読者の頭の中で余計な衝突を起こさずに、違和感なく接続されるかどうかが重要である気がします。なにしろこれは「鴨」という小説であり、その冒頭の叙景ですので。

補足:版の違いについて

村上春樹訳のカーヴァーは原文も翻訳もいくつかヴァージョンが存在しているので、念のために確認しておく。訳書には底本の記載はない。

短編集の原著について:
上記で引用した  Vintage Classics の Will You Please Be Quiet, Please? の注記によると、初版が1976年に出た後、1988年の Atlantic Monthly Press 版と1993年の Harvill 版が刊行されたタイミングでいくつかの作品は改稿され、一部はタイトルが変わっている。この「鴨」The Ducks については、雑誌初出時とは題名が変わっているものの、短編集に収録されて以降の変更はないとのこと。

村上訳の「鴨」について:
少なくとも中央公論新社の単行本版カーヴァー全集の『頼むから静かにしてくれ』(1991年初版)とその新書版『頼むから静かにしてくれ 2』(2006年初版)の2ヴァージョンがあり、該当箇所の違いは後者で「ハイウェイの上を越えて、」の読点が追加されたのみ。『Carver's dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫 1997年)には収録されていない。

※ 画像出典:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:500px_photo_(31688833).jpeg

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