翻訳小ネタ/鴨は洞穴を目指すか?
村上春樹訳、レイモンド・カーヴァーの短編集『頼むから静かにしてくれ』に所収の「鴨」The Ducks の冒頭。(太字強調は引用者、以下同様)
「洞穴」をめざして飛び立ったはずの鴨が「沼地」に降りるというのは少し違和感を覚えました。加えて、個人的には「林の奥にある静かな洞穴」といわれると鴨が洞穴(ほらあな)で雨宿りしている牧歌的な光景が頭に浮かんでしまいますが、仮に読者がそういうイメージを抱いてしまうならこの訳は失敗……という気がします。
原文は以下の通り。
鴨が目指す「洞穴」(原文 pothole)と最終的に降り立つ「沼地」(marsh)というのは日本語では異なるイメージに思えますが原文ではそうでもありません。というのは pothole というのはたいがい水溜りとか小さな池のようなものを指す言葉で、少なくとも地面に上向きに開いている穴や窪みというイメージだからです。
一般的な辞書を参照するとこんな感じ。
リーダーズ英和辞典にはアメリカ英語の用法として「自然の窪地に水が集まってできた池」という語義が記載されています。カーヴァーの「鴨」における用法はこれが一番近いのではないでしょうか。
ちなみに日常でいちばんありふれた pothole の用法は道路の穴ぼこで、画像検索するとこんな感じに。
ついでにいえば、鴨が風雨を避けて洞穴(ほらあな)に身を寄せるという話は聞いたことがありませんし、一般的な鴨の生息域に洞穴が豊富にあるとも思えません。誤解を避けるならこの箇所は「林の奥にある静かな水場」とか「林の奥にある静かな池」といった訳でいいのではないか、と思いました。
これを誤訳と呼ぶべきかは微妙なところです。ただし翻訳の品質という意味では、たぶん、このパラグラフでは pothole の指すものと marsh の指すものが読者の頭の中で余計な衝突を起こさずに、違和感なく接続されるかどうかが重要である気がします。なにしろこれは「鴨」という小説であり、その冒頭の叙景ですので。
補足:版の違いについて
村上春樹訳のカーヴァーは原文も翻訳もいくつかヴァージョンが存在しているので、念のために確認しておく。訳書には底本の記載はない。
短編集の原著について:
上記で引用した Vintage Classics の Will You Please Be Quiet, Please? の注記によると、初版が1976年に出た後、1988年の Atlantic Monthly Press 版と1993年の Harvill 版が刊行されたタイミングでいくつかの作品は改稿され、一部はタイトルが変わっている。この「鴨」The Ducks については、雑誌初出時とは題名が変わっているものの、短編集に収録されて以降の変更はないとのこと。
村上訳の「鴨」について:
少なくとも中央公論新社の単行本版カーヴァー全集の『頼むから静かにしてくれ』(1991年初版)とその新書版『頼むから静かにしてくれ 2』(2006年初版)の2ヴァージョンがあり、該当箇所の違いは後者で「ハイウェイの上を越えて、」の読点が追加されたのみ。『Carver's dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫 1997年)には収録されていない。
※ 画像出典:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:500px_photo_(31688833).jpeg
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?