ジョン・チーヴァー『四番目の警報』:「貸与品」とは何か
村上春樹訳のジョン・チーヴァーの短編「四番目の警報」The Fourth Alarm を読んでいて気がついた(気になった)こと。
この場面は、いろいろあって主人公が登場人物がみんな裸で性的な行為をやってみせたりする前衛演劇の舞台を見に行き、あれこれあって自分も服を脱いで舞台に上がろうとしている、という場面です。訳者の村上春樹によると、この作中の演劇は出演者が全裸になることで話題を読んだ実在のミュージカル『ヘアー』を元ネタにしてるのではとのこと。原著の初出は1970年の『エスクァイア』誌。(太字強調は引用者、以下同じ)
「バーサ」というのは主人公の妻で、要は妻が裸で出演してる芝居を夫である主人公が見に行った、という話です。そして観客席にいた夫も服を脱いで舞台に上がろうとする。なぜかというと、出演者が観客に向かって「みなさんも服を脱いで参加してください」と呼びかけたからです。普通ではあんまりないことだと思いますが、ある種の演劇の世界ではあるかもしれない。しかし上の引用部分には際立って意味不明なところがあります。具体的にいうと「なんで主人公は自分の貴重品を『貸与品』といわれてるのか? しかもなんでみんなで『貸与品は置いてください』などというまどろっこしい文句を唱和するのか? この小説はそういう不条理物語なのか?」ということです。原文を確認しました。
原文は以下の通り:
「貸与品」「貸与されたもの」と訳されている言葉は lending(s) で、これは普通はお金と本とか誰かに貸したもの、あるいは貸すことを指す言葉です。念のために辞書を引くと以下の通り:
なぜ主人公は財布・時計・車の鍵という自分の持ちものを「貸与されたもの」と言われているのか。しかも言ってる側は芝居の出演者ですから、「貸与品は置いてください」と言われるとまるで劇場が貸した膝掛けか何かを客が持って帰ろうとしたみたいな感じです。実に不条理です。たぶんこの短編小説のミソは、そういう主人公がおかれた状況とか、本人の行動とか、主人公の内面世界の客観的な不条理さと主観的な不条理さの一致というかズレというか、そんなところだと思います。
でも、いきなり「貸与品は置いてください」ではさすがによく分かりません。しかもそれを出演者全員が唱和する展開はますます分かりません。これは英語圏の文学を読む人は通じる話なのかもしれませんが、そんなに常識的に理解できることとも思えません。ただし、それでも原文の lendings が出てくる文脈を考えると、この場面で起こっていることは比較的よく分かる気がします。
おそらく、ヒントは若い男が「貸与品は置いてください」と「歌った」こと、そして、それに出演者全員が唱和して繰り返したというあたりだと思います。つまり、やはりそこには普通の言葉づかいとは違う意味が込められていて、しかも、前衛的な演劇の出演者が唱和するような言い回しだ、ということです。ついでにいうと、この小説のつづきには主人公が『リア王』とか『桜の園』の舞台を見に行った話も出てきます。ということは、これは何かのお芝居がネタになっている可能性があるのではないか? というのが自然な連想ではないでしょうか。
結論からいうと、シェイクスピアの『リア王』の3幕4場にこんなセリフがあります:
この場面はリア王が嵐の中で気が触れたようになってわめいてるところです。このセリフが過去にどう訳されてきたかチェックしてみました。まずはセリフ全体を小田島訳で:
つまりリア王が「人間は本当は裸なんだ、着ている服なんて借り物にすぎない、捨ててしまえ!」などといいながら着ている服を脱ごうとする、という内容です。「四番目の警報」の問題の箇所は、まさに主人公が服を脱いで全裸演劇の舞台に向かおうとしている場面です。そういう文脈からすれば「四番目の警報」で繰り返される "Put down your lendings" はこのリア王の言葉 "Off, off, you lendings!" が下敷きになってる、あるいはそれを連想させる、あるいは、常識的に「借り物」的な意味合いを含んでいる言葉と思っていいでしょう。
「歌った」というのも、本当に節をつけて歌ったか、あるいは古典劇のセリフっぽく朗々と呼びかけたということかもしれません(この作中の舞台はミュージカル『ヘアー』を元ネタにしてるのでは、と訳者は記していました)。つまりこの場面では、いわばただの観客のはずの主人公と芝居の世界、しかも、おそらくはミュージカルのような、日常世界がいきなり歌に直結されるような芝居が直接出会ってしまってるわけです。この小説の主人公はもともとは学校の先生だった妻が仕事を休んで全裸の芝居に出演するようになって思わず離婚を考えているのですが、そういったこれまでの日常の破綻のような事態と、ただの観客だったはずの主人公と舞台の空間が重なりそうになるという展開の不条理さが相似形になってる感じでしょうかね。主人公が裸にはなれても貴重品は手放せない、というあたりが妻の行ってしまった世界と主人公のどうしようもない懸隔を示している感じもあります。
ついでに福田恆存と安西徹雄の訳を該当部分だけ引用しておきます。
お分かりだと思いますが、「人は服とかいろんなモノを自分のモノだと錯覚しているけどそんなことはない、本当はみんな裸なんだ」みたいな話で lendings という単語が出てくるとき、それにしっくりくる日本語は「貸与品」というよりは「借り物」ですね。
というわけで、この場面の lendings は『リア王』の文脈を踏まえたもの、あるいは『リア王』での使われ方と同じような含みをもつものという推測が正しければ、村上訳で「貸与品は置いてください。貸与されたものは不浄です」「貸与品は置いてください。貸与品は置いてください」となってる出演者の言葉の意味は、たぶん、「所詮、財布とか時計とか車の鍵は一時の借り物なのだ」「この舞台に上がるならそんな現世的な所有物は置いて来い」というような話です(もっといえば財布は金銭、時計は人生の時間、車の鍵は財物、みたいなものの隠喩かもしれません)。なので、そんな感じの線で訳すならば多少芝居がかった感じで「借り物は手放したまえ、所詮そんな借り物は不純なのだ」とか、「借り物は手放せ」みたいな感じにするのもアリかもしれません。
ついでにいうと、村上訳は「貸与品は置いてください」「貸与されたものは置いてください」というふうに "Put down your lendings" を微妙に訳し分けていますが、原文では一字一句同じ言葉が繰り返されています。この点も、何かのセリフっぽく定型句で繰り返すことに意味があるのでは、という気はします。
ちなみにジョン・チーヴァーはわりとシュールな話もあるので、描写や展開をどこまで真に受けるべきなのかはある程度読者に委ねられる作家だとは思います。この場面に関していえば「貸与品は置いてください」という日本語はいささか事務的で「歌う」にはそぐわないのでは、とは思ったのですが、いきなり「貸与品」というタームが唱和されるシュールさがこの小説の狙いにマッチするのだ、ということであれば、それはそれで訳者の判断なのだろうと思います。
※ この記事のヘッダ画像は『リア王』のこの場面を描いたウィリアム・シャープの版画より:
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/339842
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?