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納豆と、多様性と、僕

僕は納豆が嫌いです。

僕は納豆が嫌いです。

味、明らかに「腐っているよ」という見た目、匂い、ネバネバが服につくところが嫌いです。

「納豆って美味しいの?」と納豆好きの人に聞くと、「美味しい。」という返事が返ってきます。僕は、「醤油とか、からしを入れずに食べても美味しい?」と聞くと、「そしたら微妙。」と多くの人が言います。「じゃあ、それって醤油とからしが美味しいのでは?」…という感じで論争になります。

小学校の給食で納豆が出た日は、皆によくいじめられました。皆、僕が納豆を嫌いなことをよく知っているので、僕のそばにわざわざ寄ってきて、納豆をかき混ぜてきたり、目の前で美味しいそうに納豆を食べている姿を見せつけてきたり、納豆を食べた口でそっと息を吹きかけられたりしました。とても辛い思い出です。

しかし、誤解しないでいただきたいのですが、納豆を食べている人のことを嫌いというわけではありません。納豆が美味しいという人を否定しているわけではありません。

「納豆が嫌いな人もいるし、納豆を好きな人もいるよな。」と考えています。また、納豆が給食に出た時は、
・周りにきちんと納豆いじめをやめて欲しいと伝える。
・近寄ってきたら怒るよと言う。
・給食後は速やかに教室を出る。
・出来るだけ影を消す。
などを駆使して、納豆と折り合いをつけてきました。


昨今、教育関係の記事の中で、よく「多様性」や「共生社会」という単語を見つけます。その中で、僕は「多様性を認めること」と「多様性を受け入れること」の違いを日々考えていたのですが、それらの違いに気づくヒントを納豆が与えてくれました。どういうことなのか、僕の考えを述べていきたいと思います。


「多様性を認めること」と「納豆」

先ほども述べましたが、僕は納豆を食べている人のことを嫌いというわけではありません。納豆が美味しいという人を否定しているわけではありません。

ただ、「納豆を食べられる人」と「僕」は「違う」ということを述べたいと思います。僕は納豆を食べられる人の気持ちをおそらく一生わかりません。しかし、納豆が食べられる人は僕の気持ちをおそらく一生わかりません。

この「違う」ということを、「違う=嫌い」と捉えてしまっている人は多いのではないでしょうか。学校という同質性が高くなりがちな空間では、周りの人と違うという異質な存在は浮いてしまいがちです。そのため、周囲は「違う=異質=敵or嫌い」と認識して、攻撃してしまうことが多々あるのではないかと思います。子どもたちには、「違う」と「嫌い」ということは、別々な感情であることを丁寧に伝えてあげたいです。

また、「納豆を食べられる人」と「納豆を食べられない人(僕)」という2つの軸で表現していましたが、この人たちもそれぞれ別々の人間で、一緒ではありません。「納豆が食べられる人」の中でも、納豆の好き度合いはそれぞれの人で異なるでしょう。納豆の好きな部分を考えても、匂いが好きな人もいれば、味が好きな人、ネバネバが好きな人、それら全部が好きな人というように、それぞれが異なってきます。これは、「納豆が食べられない人」でも同様です。

さらに考えると、「納豆は白いお米があったら食べられるけど、ないと食べられない」という人もいるかもしれませんし、「納豆は醤油を入れればギリ食べられる」という人もいるかもしれません。

これらの人の気持ちを「納豆が食べられる人」「納豆が食べられない人」の2つの軸だけで語ることはできないし、どちらか片方に強制しようとすることもできないと思います。どっちがいてもいいし、どっちかが正解ではないのです。

つまり、「多様性を認めるということ」は

・皆、「違う」ということに気づき、それを認めること。
・「違う」ということを恐れないこと。
・違いはたくさんあるということを知ること。
・どちらかが正解・不正解という話ではないということを知ること。

とまとめられるのかなと、僕は思います。


「多様性を受け入れること」と「納豆」**

「受け入れること」は、「認めること」のさらに上の段階であると僕は思います。では、「多様性を受け入れること」について、また納豆の例に沿って考えていきます。

「納豆を食べる人を受け入れること」は、「僕自身が納豆を食べれるようになること」ではありませんし、「僕自身が納豆の匂いを我慢すること」でもありません。

「納豆を食べる人を受け入れること」とは、「納豆を食べる人たちを認めた上で、その人たちとうまく共存していくこと」だと思います。

「納豆を食べたい人たち」のことも「納豆が嫌いな僕」のことも尊重する必要があります。しかし、両者がわかり合うことはできません。そのため、そこで用いられてくるのが「ルール」です。

「納豆をわざわざ僕の前で食べないでほしい。その代わり、僕は納豆を食べている人に冷たい視線を向けることはしないし、僕の分の納豆は皆にあげるよ。」というように、お互いがお互いを尊重し合いながら、合意形成を結ぶ必要があるのです。

たまに、「他者を受け入れるということは私が一方的に我慢すること」と考えている人がいますが、それは違うと思います。そのような一方の勝手な善意だけでは相手も気を使ってしまうし、何より自分が苦しいです。

また、ルールを一度作ったとしても、それが絶対とは限りません。「納豆に関してはルールを決めたけど、納豆パスタに関しては決めていないからいじめてやる!」という、ルール外のことが出てくるかもしれません。そのような時は、また両者で合意形成を図り、柔軟にルールを変更・追記していく必要があると思います。

人間がお互いを完全にわかり合うのは不可能です。しかし、1人では生きていけないし、楽しくありません。そのために、「ルール」を「一緒に生きていくためのツール」として用いる必要が出てくるのだと思います。


終わりに

今回は「納豆」を基準に「多様性」を考えてみました。わかりにくい方は、ご自身の嫌いな食べ物に置き換えて考えてみてもいいと思います。嫌いな食べ物がない方は、食べ物以外の嫌いなものに置き換えてみるといいと思います。

閉鎖的な島国だった日本とは違い、諸外国(特にアメリカ)は昔からずっと多様性で溢れていました。宗教、人種、肌の色、話す言葉、民族、移民問題etc…。そのため、「違うのが当たり前」であり、「人間は皆、分かり合える」というのが誤りであることを肌感覚で知っていたのです。そのために、自分の権利や考えをきちんと主張し、合意形成を図り、「ルール」を作ってきたのです。

日本は諸外国と比べて「多様性」が、まだ少ない国です。そのため、今までは「皆で気持ちを1つに頑張ろう!」「皆で一緒に頑張るぞ!」理論が通用しました。しかし、グローバル化が進んできた現在そのような理論は、うまく機能しませんし、多くの方が違和感を覚えていると思います。「1クラスに複数人日本国籍ではない子どもがいる」こともよくある状況になってきた今、どうやって「ルール」を設けずに「明文化していない共通の感覚」だけでやっていくができるのでしょうか。

また、「ルール」と「モラル」を混同して考えているような人をよく見かけますが、諸外国の人たちは、「ルール」と「モラル」の2つの概念を混同することはないそうです。
(※上の文は、参考文献で紹介する岡本薫先生の著作から拝見した内容です。)

「多様性を認め合える人になってほしい」「多様性を受け入れることができるような教育をしたい」というような言葉を、僕たちは安易に使ってしまっていないでしょうか。それらを行うには、「多様性を認める・受け入れる」ためには、それぞれが違うことを認め、「ルール」を「モラル」の違いを理解し、「ルール」を合意形成しながら作成していき…ということが必要となってきます。

「共生社会」を実現していくために求められるのは「道徳」ではなく、「覚悟」と「そのための手段」なのかもしれないと思います。


納豆という文字をたくさん書いたら、気持ち悪くなってきたので、ここまでにしたいと思います。
納豆が嫌いな方がいましたら、いっぱい納豆という文字を読ませてしまい、大変申し訳ありませんでした。僕も納豆が嫌いです。友達になりましょう。

参考文献

以下に、この文章を書くにあたって、僕の素となった本のリンクを掲載させていただきます。どれも素晴らしいものばかりですので、ご参照ください。

・「違うということ」を知りたい人

・「違うということ」を「当たり前」と考えて実践してきた学校の例を知りたい人

↑※映画もあります。

・「ルール」と「モラル」の違いを知りたい人

↑※「工藤勇一先生」と「木村泰子先生」のお二方がバイブルとしている本です。僕も拝読しましたが、すごくおすすめです!一度絶版になり、現在は復刻されていますが、残数がわずかですので、お早めのお買い求めをお勧めいたします!!


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。