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「酒場の文章を書いてほしい」とバーテンダーに言われてから

僕が文章を書きはじめたのは、あるバーテンダーに「酒場の文章を書いてほしい」と言われてからだ。

かれこれ10年以上前になるが、当時よく行っていた新宿のバーでのこと。
バーテンダーから季節のカクテルを作るからテーマを考えて欲しい、と言われた代わりに文章のテーマを考えて欲しいと返すと、彼女は「酒場の文章」と答えたのだ。
当時まだ20代半ばの彼女が、バーでも居酒屋でもなく「酒場」と言っていたことを今でも覚えている。

「酒場の文章」というオーダーに対して僕が書いたのは、バーテンダーと女性客だけが登場する短い話だった。
女性客が左利きであることをバーテンダーが見抜くと、彼女は「どうして私が左利きだって気づいたの」と尋ねる。
バーテンダーは「自分よりも相手に対して興味を持つことです」と答えてから「ただし、その興味はお客様が帰られると同時にリセットされます」と付け加える。


「酒場の文章」をオーダーした彼女は僕が知る中で最も器用なバーテンダーだった。

客との距離を適切に見極めると彼女は、その場に相応しい会話を振り、際どいラインの崩れた接客で自らを下げながら、合間で他の客のグラスに水を注ぐ。静かな夜を求める客には、間を図らいながら前回のオーダーを覚えていることを遠回しに添えて、その身を薄める。
満席で騒々しい客が集うときでも、深夜の緩い時間でも彼女のバーテンダーとしての技術は常に維持され、カクテルの味が変わることはなかった。

彼女にとっての接客は美味い酒を飲ませるための寄り添いであり、好かれるための迎合ではなかった。いわば接客は最良の手段であり、その先に美味い酒を飲ませるというバーテンダーとしての矜持が隠れているようだった。

ある夜、他に客がいないバーカウンターで、僕は彼女に上に書いたようなことを言った。酔っていたこともあり、本人を前にあなたがいかに素晴らしいバーテンダーであるかを分かっている、ということを話したかったのだろう。

「それはバーテンダーとして私が目指していた姿です」
そう言って彼女は僕に照れた顔を見せた。それは彼女がはじめて見せるバーテンダーではなく、女としての顔だった。

その頃から僕は彼女に客として以上の感情を抱きながらも、彼女のバーテンダーとしての職業意識を理由に自らの気持ちを隠していた。

そんな彼女が冒頭の通り僕にカクテルのテーマを考えて欲しいと言い、代わりに「酒場の文章」を僕にオーダーしたのだ。

その数日後、僕は彼女の季節のカクテルを嬉しく味わい、彼女は僕が書いた文章を物珍しそうに読みながら、少しだけ戸惑っているようだった。

それから彼女が立つバーカウンターで酒を飲むことが多くなり、互いの距離も近づいてきた頃に彼女は何も言わずにバーテンダーを辞めてしまった。

「ただし、その興味はお客様が帰られると同時にリセットされます」
彼女がいなくなったバーカウンターで、僕は自ら書いたセリフを思い出し、拭えない感傷を抱きながら身の丈に合わないような高い酒をオーダーした。

マスターは察したように酒を注いだが、それはいつも僕が飲んでいたウイスキーだった。
「今日は美味い酒じゃなくて沁みる酒を味わいな」
無口だったマスターは珍しく僕にそう言った。

彼女が辞めてしまった理由を尋ねたかったが、彼女はそれを望んでいないと言い聞かせて、マスターが注いでくれたウイスキーをじっくりと時間をかけて味わった。

「今度は美味い酒を味わうのに相応しい夜に飲みにきな」
マスターは帰りがけに僕にそう言った。

そのバーカウンターは、彼女がいた頃のような柔さは薄れ、大人が襟を正して酒を味わう場へと変わったように僕には思えた。
何かが失われたのか、僕が感傷的になっているだけなのか分からないまま酒を飲み続けた。
今にして分かるのは、若いからこそ楽しめる場もあれば、ある程度年齢を重ねないとその良さに気付けない空間もあるということだ。

それから僕も年を重ねて、様々な感情を味わう中で、時には誰かの心に触れるものを書けたと実感したり、文章を書いた先でいくつかの苦楽を味わったりもした。

そんな感触や実感を頼りに今でも文章を書き続けているが、僕にとって酒場を書くのはバーを書くよりも難しく、未だに彼女のオーダーは果たせてはいない。彼女も僕の文章を読んだときにそれに気づいていながら、黙っていたのかもしれない。

バーと酒場の違いは、バーが人の品位を表す場であるのに対して、酒場は人の汚さが炙り出される場と言えるだろう。
今思えば、彼女は酒場のように空気を崩しながら、バーとしての品位を保っていたようだった。
そんな彼女が「酒場の文章」をオーダーしたが、僕には酒場という騒々しく酔っ払う人々の有り様を書くことができず、美しさだけを書き、汚さを書くことを避けていたのだ。

そして僕のような形式に収まった文章では、酒場という素材を適切に扱うことが出来ないから、酒場を書くには、新たな文体を再構築する必要があるはずだ。

それに気づいた僕は10年振りに彼女が働いていた新宿のバーに訪れた。

閉店間際で誰も客がいないバーカウンターで、マスターはグラスを磨いていたが、僕を見てすぐに気づいたようだった。
「美味い酒を飲みに来たのか」
「それはまだもう少し先になりそうです」

バックバーを見渡して僕は当時よく飲んでいたウイスキーをオーダーした。マスターに話したいことを切り出せずに、僕はしばらく黙ってウイスキーを飲んでいた。
長い沈黙の末に口を開いたのはマスターの方だった。
「彼女がなんで辞めたか、そろそろ知ってもいい頃だろう」
「ずっと気にはなっていましたが、誰にも聞けませんでした」

マスターはグラスを磨く手を止めた。
「俺も飲んでいいか」
そう言うとマスターは、磨いていたグラスに僕と同じウイスキーを30ml注ぎ、それを一口で飲み干した。

「彼女はあんたに惚れちまったんだよ」
僕はウイスキーを一口飲み、当時のことを思い出した。

僕は彼女のバーテンダーとしての職業意識の高さに惚れていながらも女性として見ていたが、それを誰にも悟られないようにしていた。
僕が彼女に、もしくは彼女が僕にその想いを伝えてしまったら、少なくともバーテンダーとしての彼女は崩れていたはずだ。
その先の互いの行く末がどうなっていたかは分からないが、女性バーテンダーと男性客が色恋に落ちることは、この世で最もリスクの高いことのひとつだと僕には分かっていた。
そしてそのリスクの大半を追うのは、僕ではなく彼女だったはずだ。
その結果、僕は想いを隠し続けて、彼女はそのバーテンダーを辞めてしまったというわけだ。

マスターはもう1度30mlのウイスキーをグラスに注いだが、今後はそれを少しずつ味わった。
「彼女はあんなたが書いたセリフに葛藤してたよ」
そう言うとマスターは、当時僕が書いてプリントした文章を手にした。

10年間その文章はバックバーの奥に隠されていたようだった。
『お客様との距離を保つことはバーテンダーのミニマムスキルです』
そのセリフには二重線が引かれていた。

「彼女はそのセリフの通りには出来ないから辞めると俺に言った」
「マスターは彼女に何て言ったんですか」
「辞めなくてもいいだろとは言ったよ。辞めずにあんたのことをあきらめるか、その先に進みながらバーテンダーとしてその問題に向き合うか、色んなやり方があるはずだと」
息継ぎの代わりに合間でウイスキーを飲みながら、マスターは当時のことを話してくれた。

「彼女は、今は何をされているんでしょうか」
「去年、地元で自分のバーを出したみたいだ。あんたに伝えるかは俺に任せると言っていたよ」
「そうですか」
「10年も経ったから、そろそろ顔出してもいい頃だろう」
「彼女はそれを望んでいるんでしょうか」
「それはあんた次第だよ。酒場の文章が書けるようになったら顔出してやれよ。お互いの区切りとしてな」

それからマスターはグラスを磨くのをやめて、ウイスキーを飲み続けた。
僕はマスターに言うべき適切な言葉が見当たらないままカウンターを後にした。

帰り道でマスターの気持ちを想像した僕は、新たな書き方で酒場の文章を書けるようになったら彼女のバーに行くことを決めた。

そして僕の酒場の文章を彼女が読んでくれたなら、そのときはマスターが注ぐ本当に美味しい酒を味わいたい。

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