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なぜバーテンダーは女が左利きであることを見抜いたのか

「ジェムソンをオンザロックで」
バーの扉を開けると女は迷わずカウンターの右端へ座り、店内の様子を伺うこともバックバーのボトルを眺めることもなく、即座にバーテンダーにオーダーした。

「かしこまりました」
バーテンダーは丁重に応じた。

「それから、ねぇ、何かつまめるものをちょうだい。ジェムソンに合ったものを」

「かしこまりました。自家製のチョコレートの盛り合わせがございますがいかがでしょうか」

「自家製?チョコを」
「左様でございます。自家製のチョコレートでございます」
「まぁいいわ。あなたが勧めるなら。その自家製のチョコをちょうだい」
「かしこまりました。それでは自家製のチョコレートをご注文として承ります」

バーテンダーは、冷蔵庫からチョコレートを取り出すと、ナイフで正確に7等分に切り分けた。
同時に丸氷はグラスに覆われ、次の間、グラスはジェムソンを迎える体制を整えた。

メジャーカップで30ミリ注がれたジェムソンは、丸氷の表面を滑りグラスを満たした。間もなくコースターが配置された直後、女の右側にジェムソンのオンザロック、左側にチョコレートとフォークが並べられた。
「お待たせ致しました」
バーテンダーは半歩退いた。
「ねぇ、どうして私が左利きってことに気付いたの」
女は頬杖をつき、バーテンダーを直視した。瞬間的沈黙が訪れ、やがて解除された。

「チョコレートは鮮度が重要です」
女の質問に答えることなくバーテンダーは確信を持って言った。
「とにかくいただくわ」

女はチョコレートをつまみ、ジェムソンを味わった。左手でチョコレートを、右手でジェムソンを口に運び、それぞれを味わうサイクルが7回交互に、そして均等に繰り返されると、チョコレートは最後の一切れになったが、ジェムソンは未だ丸氷を溶かしていた。
女はチョコレートの最後の一切れを惜しみなく溶かし、残りのジェムソンを一気に飲み込んだ。

「確かにジェムソンにぴったりでとても美味しいチョコだったわ」
女が言うとバーテンダーは半歩前に立った。
「いささか逆説的ではありますが、あなたの方が数あるウィスキーの中から、自家製のチョコレートに最も適したウィスキーとしてジェムソンを選んだのかもしれません」

バーテンダーは遠慮がちに答えたものの
「自家製」という言葉は強調されていた。

「私の方が選んだ。それは興味深いわね」
「恐れ入ります」

バーテンダーは再び半歩退いた。
「次は何にしよう。そうね、ドライなのがいいな」
「かしこまりました」

バーテンダーは微かに頷き、女にラベルが見えるようにノイリープラット/ドライとタンカレー/ジンのボトルを並べた。
「マティーニ?」
女が聞いた。
「いかがでしょう」
「任せるわ。私はあなたを信用している。ただその前に私が気になっていることを答えてほしいの」

バーテンダーは女をじっくり見つめ、ゆっくりと息をした。
「それではご注文として承ります。誠に僭越ながら申し上げますと興味を持つことです。厳密には自分よりも相手に興味を抱くことです。私は入口が扉を開いた瞬間からあなたに興味を抱き、あなたの所作が左手のそれであることを見ました」

「それで私が左利きであることに気付いたの」
「はい。左様でございます。ただしその興味はあなたがここを去るとリセットされます」
「ずいぶん器用なのね」
「誠に僭越ながらお客様との距離を一定に保つことは、バーテンダーのミニマムスキルです。ピアニストが和音に合ったメロディーを奏でるように」
「興味はリセットされるけれど記憶には残り続けるのね」バーテンダーは女の言葉に微笑みで応えた。

「カクテルは鮮度が重要です」
バーテンダーが冷やされたショートグラスを手にすると微笑みは闇に隠れた。

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