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本当に美しい人との夜に

美しくありながら自由に生きている人ほど魅惑的な人はいない。ならば私が知る本当に美しく自由で魅惑的なのは2人だけだ。

1人は「ティファニーで朝食を」でオードリーヘップバーン演じるホリーゴライトリーでもう1人はバームーンリバーのオーナーだ。

彼女は、週末の夜には開業医の旦那と自らが経営するバーに飲みにきていた。
早い時間にはワインボトルと共にディナーをゆっくりと味わいながら静かに飲んでいるが、24時を過ぎてカウンターがなじみの客だけになると彼女は女王として覚醒する。

夜が深まるに連れて彼女の意思は自由に赴き、ターゲットと酒を決めるとそれを大胆に飲ませた。

ある時はテキーラで、ある時は度数の高いカクテルで、ある時は値の張るワインをある夜には店のスタッフが、ある夜にはカウンターで隣り合わせた客が、ある夜には私が有無を言わさず飲まされた。

アルコールが底知れぬ寂しさに触れると彼女は、自らの自由な振る舞いがどこまで許されるかを試しそれを楽しんでいるようで、どこか誰かに許されないことを待ち望んでいるようでもあった。

その夜は私が自宅でゆっくり寛いでいると彼女から着信があった。
一瞬ためらった後にその着信に応じると彼女はすでに酔っている様子だった。
「ねぇ、お鮨食べたいでしょ」
質問をされてはいるが答えに選択肢がないことを悟ると私はそれに従った。
「はい、もちろん」
「じゃ5分で来なさい」
彼女の高笑いが耳元に響くと電話は切れた。

私はすぐに着替えると急いで彼女が経営するバーへと向かった。
10分ほどで到着すると、その街で1番の味と評される鮨屋の大将が彼女と飲んでいて、カウンターには何十貫もの鮨が並んでいた。

「せっかく出前とったのに遅いじゃない」

私を見ると彼女は不服そうに言い、目の前にあるワイングラスを私の口に付けた。
「のど渇いてるでしょ」
そう言うと彼女はワイングラスの底を上げた。
ワインを一気飲みするかこぼすかの選択に迫られた私は一気にワインを飲み干した。

喜んだ彼女はグラスに新たなワインを注ぎ再びそれを私の口に付けた。私が同じく一気で飲み干すと彼女は満足気に
「好きなの食べな」
と言って今度はウニを私の口元へ運んだ。
私がウニを一口で飲み込むとようやく鮨を食べることが許された。

ワインボトルと鮨の桶が空になると彼女は
「みんなでカラオケ行こう」と言い出した。
そこにはいつの間にか鮨屋の大将の姿はなかった。鮨を握るのと同じく逃げ足も早かった。
大将の鮨屋は末永く安泰だろう。

結局、私はバーのスタッフと彼女と旦那と共にカラオケに行くことになった。
その時の彼女は誰よりも陽気で解放感に満ちあふれていた。私のとなりで彼女は自分が気になっていた流行りの歌を私に歌わせると、見たこともない笑顔で喜び笑った。

その夜以来、ひとり静かにを酒を飲む日々は遠ざかり、少しずつ彼女との距離が近づいていった。
当時精神的に追いつめられていた彼女は、バーでの自由な振る舞いで束の間現実を忘れる一方、私にわがままに頼ることで、何とか現実と対峙していたのかもしれない。

彼女との仲が深まると自宅に呼ばれてワインや料理をご馳走になることや、彼女の車でドライブに行くこともあったが、彼女と2人きりになることはなかった。そこには常に彼女の旦那が穏やかに付き添っていた。

ある日の夜に久し振りに1人で飲んでいると彼女から連絡があった。
「今度の金曜の夜、空いてるよね」
「はい」
「じゃ銀座に連れて行ってあげる」
彼女は私の答えを聞く前から銀座で有名なイタリアンとワインバーを予約していたようだった。

金曜日の夜に仕事を終えると、私は誕生日に彼女から頂いたネクタイを付けて銀座へ向かった。
予約時間の5分前にTIFFANY&Coの真向かいにあるイタリアンに着くと彼女は1人で白ワインを飲んでいた。

彼女の横に旦那の姿はなかったが、私はそのことには触れなかった。

彼女が身につける黒いワンピースはその白い肌を妖艶に際立たせ、細い指は際どく彼女の黒髪をかき上げた。
「今日は旦那は来ないよ、気になっていたんでしょ」
「いえ、いつも一緒だったので」
適切な切り返しが見当たらず、私は彼女と同じ白ワインをオーダーした。

ワインに続いて彼女が指定したコース料理が順に運ばれてきたが、彼女を前に私はその料理を十分に味わうことが出来なかった。端的にいえば、彼女の美しさを前に私の味覚は感覚を失っていた。

イタリアンを出て2軒目のワインバーへ行く途中、彼女は伊勢丹へ向かった。
紳士服のフロアを一巡すると彼女は私の正面に立ち
「何でも好きな物買ってあげる」
と言った。

その時、その場の言動として何が正しいのか分からなかった私は
「今夜の食事とワインだけで十分にありがたいです」と答えを絞り出しその申し出を断った。

「あらそう、この革のベルトの時計似合いそうだけど」
彼女は断る私に気分を損ねることなくそう言いワインバーへと向かった。

カウンターに着くと彼女はソムリエと相談しながら慎重にワインをオーダーした。
「今日はちゃんと五感で味わって飲みなさい」
その夜、彼女は私に何杯ものワインをゆっくりと味わせてくれた。

カウンターの端では40代後半ぐらいの男が、若い女性に自らがオーダーしたワインの価値から産地や味わいを語っていた。
ソムリエはさりげなく若い女性にラベルが見えるようにボトルを傾けた。
若い女性がそのラベルに書かれた文字をぎこちなく読むと男は喜んだ。

「あの子、本当はワインに詳しいはずよ」
彼女はワイングラスの淵を拭いながら言った。
「そうなんですか」
「ワインには読み間違え方にも正しい読み間違え方があるの。ソムリエはそれに気付いているけど男の方は気付いていないみたいね」
「スマートな振る舞いも難しいですね」
「スマートさばかりが求められる訳でもないのよ」

そう言うと彼女はワインの色と香りを入念に確かめてからじっくりと味わった。
私も彼女と同じペースでワインを確かめて味わった。
先の男女がカウンターを後にすると彼女は言った。

「若い女にある程度の年齢の男がワインの価値を語る。そういう男の振る舞いを茶化す人もいるけれど私は必要なことだと思う。
品位ばかり求めていたら潤いが欠けるし、欲に寛容な街にはお金が回りその街の店は潤う。銀座は両方のバランスを保って活きてきたの」

男が高いワインをオーダーしたのは、それを味わいたかったのか、虚栄心を満たしたかったのか。私なりに考えていると彼女はソムリエに言った。
「そのラフロイグ、ストレートで彼に」
私がウイスキーが好きであることを知っていた彼女は「1971年」とラベリングされたラフロイグをオーダーしてくれた。
彼女は私の視線の先を追い、私がそれを味わいたくも言い出しにくいことを察していたのだろう。

「1971年、ずいぶん高価なものです」
「あなたには味わう資格があるわ」

ソムリエがラフロイグを注いだグラスからは立体的な香りが私に揺さ振りをかけてきた。
年月の洗礼を受けたその味わいは捉えどころなく私を魅了した。
彼女の美しさを前に失われた私の味覚はラフロイグにより鋭利を取り戻した。

その夜の彼女はいつものような自由でわがままな振る舞いはなく、落ち着き払ったエレガントな大人の女性だった。
佇まいは見惚れるほどに美しく、さりげない仕種ひとつにも美が宿っているようだった。

それは恐らく彼女が生きていく過程で身につけた美しさなのだろう。生まれ持って身につけた美しさには表すことのできない内側からにじみ出る麗しさが彼女の仕種に現れていた。

私はラフロイグに魅了される傍ら彼女の美しさに思いを巡らせた。

20代の頃から都内の有名なフレンチやイタリアンで一流の料理や洗練されたサービスを味わってきた彼女は、その体感を自らの内側に染み込ませていた。森が光を浴びて新緑を増すように、彼女は一流の感性をじっくりと吟味して味いそれを自身の感覚に溶け込ませた。やがてその感覚が彼女の振る舞いとして表れると、無意識の美しさは彼女の輪郭を縁取った。
彼女の身にまとった美しさは日常に魅せられる奇跡のようで、私はその触れることの出来ない美しさを記憶に留めようと目に焼きつけた。

空になった私のグラスからはラフロイグの豊潤な香りが保たれ、彼女のグラスの淵には赤い余韻が残っていた。

「そろそろあなたも大人の男として人からご馳走されるということも学びなさい」
そう言うと彼女は会計をすることなく立ち上がった。

ワインバーを出て地上に上がるとメルセデスベンツと運転手が我々を待っていた。銀座の街は深い夜に向かい忙しなく輝きを増していた。

彼女と私が後部座席に乗るとメルセデスベンツはゆっくりと動き出し、きらびやかな銀座の街を後にした。

静まり返った車内は彼女の気配で満ちていた。私がゆっくりと息を吸い鼓動を整えると彼女は
「ねぇ」
と一言添えてその頭を私の肩に預けてきた。
心地好い重みと彼女の甘い香りは再び私の鼓動を加速させた。
我々は何も言わずにしばらく沈黙を保っていた。
運転手は気配を消し、メルセデスベンツは我関せずと従順に首都高を走り、首都高の光は月の灯りと混ざりその夜を照らしていた。

カーブで身体が傾くと彼女の指先が私の指に曖昧に触れた。私はそのきっかけを利用して指を絡めてしまいたかった。

彼女の身体が傾きから戻ると私の指は行き先を見失いそこに留まった。

やがて彼女は絡まりかけた指を離し、私の肩から頭を上げて元の姿勢に戻った。束の間見せたその隙は余韻を残すことなく消えていた。

私は留めた指への後悔と未だ彼女が横にいることへの淡い期待を抱えながら彼女の方に身体を傾けた。

「もうすぐ着いてしまうけどまだ飲めるかしら」
彼女の言葉が私の耳に触れると2人の指はわずかに重なった。

月灯りに触れた横顔を覗くと彼女は私の邪念さえ凌駕するほどに美しかった。

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