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【優秀作】旅を夢む。 - 坡嶋 慎太郎【純文学】

あらすじ

フリーのカメラマンである「私」は、自身が写真に興味を持ったきっかけを回顧する。友人・沼津の言葉を聞き、人生に対する漠然とした不安を拭う方法を探す「私」は、今日も救いを求めて歩み続ける。

本編

 Light。カメラのフラッシュが純粋な闇に覆われた宵の中に一輪の光を灯した。照らし出された空中を一匹の羽虫が飛んでいたのが、妙に印象的だった。
 
 私が写真に興味を持ったのは大学一回生の時だった。その頃、私は青年期にありがちな「自身の存在の必要性」についてぼんやりと考えることがあった。
 大学生の私は自分が生きている理由がよくわからなかった。ただ、無為に過ぎていく時間のことを思っては途方もない不安に襲われることがあった。

「なぁ、私たちはなんのために生きているのだろうか」
 ある日、私は中学時代からの友人である沼津にそう問うた。沼津は少し考え込んだ末に「さてな」と答えた。楽観的な様子の沼津が私には少し羨ましかった。
「私たちはきっと、死後、誰の記憶にも残らないだろうな」
 私はそう益体もない愚痴をこぼした。ただ、私の中にある不安を翳りのない陽光の中に溶かし出したいと願った。頬を撫でる風が、私には救いの女神の掌のように感じられた。
「それは」沼津が口を開いた。
「それは全く寂しいな」

 言葉とは裏腹に沼津の表情はあっけらんとしていた。手に持った缶コーヒーを揺らしながら、彼はずっと先の空を眺めていた。
「君は将来、何になりたい」
 ベンチの背もたれの熱を感じながら、私はまた沼津に質問を投げかけた。
「何になりたい、か」
 私の質問に、多少考え込むような様子を見せた沼津は、手に持った缶コーヒーを一息に呷ると「何もないな」と答えた。

「それも……全く寂しいな」
 先の沼津の答えと同じことを私は繰り返した。
「ただ、興味のあることなら」
 私の座るベンチへ振り返った沼津は、イタズラを思いついた悪童のような表情を浮かべていた。

「興味のあること?」
「あぁ、こいつだ」
 胸ポケットから取り出したスマホを横に倒すと、彼は私に向かって「ピースだ、ピース」と言った。
「藪から棒になんだ」
「写真だよ、わからないか」
 パシャリ。彼の言葉を裏付けるように機械的なシャッター音が響いた。どうやら、私の姿を撮ったらしい。

「無断で撮影とは、褒められたものじゃないな」
「友人の姿を撮って、何がおかしい?」
 スマホの画面に目を向けたまま私の側まで歩み寄った沼津は、そのままベンチに腰掛けるとスマホの画面を私に向けた。
「これが今のお前の姿だ」
「そりゃそうだろうな。今撮ったんだから」
「そして、お前がここにいる証でもある」
「証?」

 沼津の言葉を私はすぐには飲み込めなかった。
「俺たちは。いや、俺たちだけじゃない。この世界に存在する全て。虫も。花も。動物も。校舎やベンチだってそうだ。俺たちが見ている世界そのものはいつ消えたっておかしくはない。そして、お前が不安に思う通りに、それらは死後――物に死という概念があるかは置いておいても、誰の記憶にも残らないかもしれない」

 沼津はやはり、遠くに見える大きな雲の塊を眺め続けていた。反面、私は彼の横顔を見つめ、彼の口の動きの一瞬すらも見逃さないように気を張っていた。
「だがな、写真は別だ。これはお前がここにいた証になる。これはベンチがここにあった証になる。今日が晴れていた証になる」
 沼津の表情は柔かだった。まるで、自身の死期を悟った病人――口に出していれば「縁起でもない」と怒られていただろう、を想起させた。

「……私が常に見ている世界は主観によって構成された実存の世界だ」
「ああ。そして写真は、その主観の世界を客観の世界へと導く栞のようなものだ」
 再び、私は沼津のスマホに表示された〈私の姿〉を確認した。ニコリともしていない私の顔と、風に揺られる草木とが一枚の風景画のように切り取られていた。
 確かに。今の私が過去の私を見ている。ひょっとすれば、過去の私が今の私を見ているともいえるかもしれない。

「面白いな、これは」
「だろう」
 再び、私たちを浚うように風が吹いた。たなびく髪が、擦れる葉が、揺れる陽光が、世界を穏やかに彩っていた。
 私はズボンのポケットから自分のスマホを取り出した。ホームボタンを押すと、パスワードの入力を求められた。六桁の数字を入力し、ホーム画面の右上に表示されたカメラのアイコンをタップする。

 画面の中に眼前の景色がそのままに映し出された。美しい景色だと、素直にそう思った。
 シャッターを切り、風景を一枚の画像へと変換する。画面には数秒前の光景が〈今〉であるかのように写されていた。
「将来はカメラマンか」
 私は微笑を浮かべて沼津に言った。
「さあな」

 短い返事だった。だが、私たちの会話はそれでよかった。それから、私たちはまた日が落ちるまでの間、新しい玩具を与えられた幼子のように、景色を切り取る遊びに興じ続けた。

 Light。二度目の光が咲いた。私は目的もなく街灯のない路地を歩いていた。空には厚く重苦しい雲がかかり、道標となる月明かりも今日は見えなかった。
 私の不安は大人になった今でも消えてはいなかった。死後、私はきっと誰にも覚えられずにその存在を消すことになるだろう。けれども、私が生きた証は手に持った撮影機の中に貯められている。今はただ、それで良いと思えた。

 そういえば、沼津は元気だろうか。大学卒業を機に、私と沼津の交流は次第に薄くなった。今は年に数回ほど連絡をとる程度の仲になった。お互い、自らの歩む人生に必死なのだろう。
 驚くべきことに私はいま、フリーのカメラマンとして働いている。特に建築関係の雑誌に掲載するための住宅の写真を撮ることが多かった。それは、人の営みが行われる〈家〉というものに強く惹かれたためでもある。

 〈家〉は人々の憩いの場だ。私の持てなかった夢想の世界だ。それは、如何にも羨望せざるべきものである。
 私という人間の持つぼんやりとした不安は決して消えることはない。だが、沼津に教えられた客観の世界を旅しながら、私はどこかにあるかもしれない癒しオアシスを求め続けている。それは、やはり私の目には映っても手は届かない場所にあるのだろう。鏡のように、あるいは写真のように。

 Light。三度目。変わり映えのしない夜半の景色の中に咲く一輪のひかりよ。どうか、私の行く末を辿るための栞となれ。私と世界とを結びつける楔となれ。私はそう心で祈りながら、今日も孤独な実存の世界を旅し続ける。

 願わくば、なにか私の生きた証が残り続けるように、と――。


あとがき

それぞれの作品世界は独特の構造でもって読者を深部へと誘い込む。 さあどうぞ。あなたの望むままに。 - 桜賀創藝

サークル・オベリニカ|読後にスキを。

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