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「聴いて」ほしいのはWhyよりWhat

やまゆり園の事件で被告人質問が始まった。個人的に知りたいのはWhyではなくWhat、つまり「なぜ事件を起こしたのか?」ではなく、「本当に求めていたものは何なのか、なりたかったのはどういう自分なのか?」である。フロイト的な分析アプローチではなく、アドラー的な「隠された目的」に迫るアプローチは取れないものか?と思うのである。

遺族や関係者はもちろん、第三者であっても、こうした凄惨な事件を知ってまず頭に浮かぶのは「なぜ?」という疑問である。再発防止の観点からも原因究明のWhyに意識が向き、「なぜ事件を起こしたのか?」を探ろうとそこに質問は集中する。

しかし残念ながら、多くの場合、多くの人が納得できるような回答は得られない。遠回りなようだが、間接的な角度を変えた質問でその内面に迫ることはできないものかといつも思う。

被告人は大麻を理由とする弁護側の意見を否定している。むしろ、自身が打ち立てたある種の歪んだ「正義」を主張しているように見える。

互いに異なる「正義」をもつ人が理解や合意を得ることは基本的に難しい。これは日頃のニュースを見ていても感じることである。

例え、打ち立てられた「正義」が第三者から見て理不尽や非合理なものであったとしても、それが覆ることはないに等しいのではないか。もはやそれはその人にとっての生きる拠り所、自分の存在・行為を肯定する根源になっている可能性が高いからだ。

「正義」が邪魔をして見えなくしているが、そこには深い心の底にある「隠された目的」があったのではないか。恐らく本人は無自覚だろう。

そしてその「隠された目的」は自分が得られなかった何か、なれなかった自分と現実とのギャップのなかで埋まれたのではないか。そのギャップを埋めるために「正義」は打ち立てられ、「正義」の名の下に行為として現れたのが今回の事件ではないのか?

人間は自分が思っているほど自分を、自分の感情を理解していない
Whyを訊いたところできっと本人もわかっておらず、今までと同じ主張を繰り返すだけではないだろうか?そしてそれは遺族や関係者の心の傷をさらに深めてしまうだけではないだろうか?

一方で人間は意識的にも無意識的にもギャップを埋めたい生き物である。
何を求めていたのか、どうなりたかったのか?本人もわかっていないのではないかと思う。しかし、心の奥底にそれはあるのではないか。その部分(What)を「聴く」ことは時間はかかるだろうが、Whyを「訊く」ことよりも被告人の内面を知るきっかけになるのではないかと思うのである。

生きてきた中でどこかでモヤモヤした不満足を抱え、何らかの直接的な、目先のものでその不満を埋めたつもりになっていたが、それが積もり積もってどこかでごまかしが効かなくなって、「正義」を打ち立てるに至ったのではないだろうか?

そんな風に思えてならないのである。

今回に限らず、理解しがたいと言われる悲惨な事件が起こるたび、いつもそんなことを考える。

悲惨な事件の解明や再発防止は簡単なことではないだろう。けれど、「訊く」から「聴く」に変えて、WhyではなくWhatに迫ることで、事件を起こした人の背景が少しでも明らかになり、このような悲惨な事件を少しでも減らしたいと考える人の参考になるような「何か」が得られるのではないか?とどうしても思ってしまうのである。

そして今回の事件でもうひとつ思うこと。
「障害者」とはどんな人を指すのか?

「障害」を抱えていたのは施設で暮らしていた「障害者」なのか、それとも「健常者」として生活していた被告人なのか?




歩く好奇心。ビジネス、起業、キャリアのコンサルタントが綴る雑感と臍曲がり視点の異論。