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映画ジャンルの哲学:役割、定義、存在論、価値

「映画の哲学」の教科書、The Routledge Companion to Philosophy and Filmにジャンル[Genre]の項目がある。Brian LaetzとDominic McIver Lopesによる共著で、ざっくり「映画ジャンルはどのような機能を果たすのか」「映画ジャンルの定義(必要十分条件)」「映画ジャンルはどのような存在者なのか」「映画ジャンルと作品価値の関係」といった問題について取り上げている。以下、紹介とコメント。

1.ジャンルの役割

映画ジャンルはなんのためにあるのか。真っ先に思いつくのは、映画作品の解釈と鑑賞を助けるためだ。鑑賞者はジャンル概念をもとに考え、作者はジャンル概念をもとに製作する。

映画には明示的に描かれておらず、示唆されているだけの内容が含まれている。ヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』(1954)でジーン・ケリーは誰かからの電話をとる。相手は喋らないが、そこには確かに〈誰かがいる〉ことが示唆されている。観客は想像によってそれを読み取るが、正確に言ってなぜ分かるのか。Laetzらによれば、まず「現実原理」と呼ばれる推論規則がある。

「現実原理[Reality principle]」:ある物語がqを表象するのは、以下のときに限る。物語はp1~pnを明示的に表象しており、p1~pnならば⇒qであるようなとき。

電話が鳴り、それをとったのだとすれば、論理的に言って電話線の向こうには誰かがいる。すなわち、明示的に描かれているものをもとに示唆されているものが読み取られる。しかし、つねにこの原理が使えるとは限らない。自立した女性を明示的に描く物語では、同時に〈結婚の望みが薄い〉ことを示唆しているが、そこに論理的な結びつきはない。ここで、別の推論規則として「相互信念原理」がある。

「相互信念原理[Mutual-belief principle]」:ある物語がqを表象するのは、以下のときに限る。物語はp1~pnを明示的に表象しており、かつ物語が本来のターゲットとする鑑賞者たちの間で、p1~pnならば⇒qであると相互に信じられているようなとき。

論理的でないにせよ、一定の観客グループの間でp1~pnならば⇒qだろうと集団的に信じられている場合、このグループに向けてp1〜pnを明示的に提示する物語は、同時にqを示唆することになる。しかし、これでもまだ不十分なケースがある。ある物語に、引っ込み思案なドラゴンのスナッフルスがいたとして、それでも我々は〈スナッフルスは火をはく〉ことが示唆されていると考える。ドラゴンは存在しないので、論理的に言ってふつう火をはくとは言えないし、観客の間でそう信じられているわけでもない。〈スナッフルスは火をはく〉という示唆は、現実原理や相互信念原理によるものではなく、「ファンタジー」ジャンルによるものである。

「ジャンル原理[Genre principle]:ジャンルKに属するある物語がqを表象するのは以下のときに限る。物語は、明示的にp1~pnを表象しており、かつp1~pnならば⇒qであることがジャンルKの特徴であるようなとき。

「ジャンル原理」はいわばそのジャンルの“お約束”であり、ファンタジーにおいて出てくるドラゴンはたいてい火をはくと解釈される。逆に言えば、ジャンル原理は、異なるジャンルにおいて見られたときに異なる仕方で作品が解釈されうることをも示している。

解釈だけでなく、鑑賞もジャンルによって左右される。ケンダル・ウォルトン[Kendall Walton]「芸術のカテゴリー」(1970)は、どのようなカテゴリーにおいて作品を見るかで美的性質の帰属が左右されると論じたが、このことは映画ジャンルについても成り立つ。いきなり踊って歌い出すからといって、『ウエスト・サイド物語』(1961)は〈滑稽だ〉とは言えない。ミュージカルはふつういきなり歌い出すからだ。すなわち、正しいジャンルというのがあり、映画作品はそのもとで見られるべきである。〔正しいジャンルがどう定められるのかについては、ウォルトン論文を参照〕

ということで、ここまで映画ジャンルにはふたつの役割があることを見てきた。(1)解釈において、示唆されているものを想像によって補うのを助けてくれる。(2)鑑賞において、美的性質を見て取るのを助ける。


2.ジャンルの定義

芸術に関するメタカテゴリーには、ジャンル以外にも色々ある。芸術形式、芸術メディア、特定の作者の全作品、伝統、様式など。なにがなにゆえ「ジャンル」となるのか。ジャンルはその他のメタカテゴリーとどう異なるのか。ここでは、ジャンルの定義として「カテゴリーKがジャンルであるのは、以下のときかつそのときに限る。〜〜」といった必要十分条件がほしい。

第一に、あらゆるジャンルにはふたつ以上の事例がある。「『真夜中のカーボーイ』と同一の作品」というカテゴリーには、唯一のメンバー(『真夜中のカーボーイ』)しかいないため、これは映画ジャンルではない。

第二に、映画ジャンルにおいては複数人が役割を果たす。特定の映画は、「ヒッチコック監督映画」や「ジェームズ・ステュアート主演映画」みたいなカテゴリーでもくくれるが、これらはいずれも「ジャンル」に相当するメタカテゴリーではない。

第三に、映画ジャンルは製作者に関する社会的要因によっては定義されない。「コメディ」や「アクション」はどんな監督でも作れるが、「ボリウッド」はその伝統に連なる作者にしか作れない点で、「ボリウッド」はジャンルではない。『シックス・センス』(1999)が「サスペンス」であるのは、サスペンスとして(意図されて)作られているからであり、「ハリウッド映画」であるのはハリウッド資本で作られているから。前者はジャンルであり、後者はジャンルではない。

ジャンルを定義する要素はいろいろある。ウェスタンは設定によって、戦争映画は主題によって、コメディは感情的効果によって、ミュージカルは形式によって、フィルム・ノワールは様式によって定義される。しかし、これら要素がつねにジャンルを形成するわけではない。例えば、「ニュージャージーの田舎」という設定や、「芝刈り機」といった主題や、「落ち着かせる」といった感情的効果や、「シュルレアリスム」といった様式は、ふつうジャンルとは呼ばれていない。

言うなれば、観客の鑑賞と解釈においてインパクトのある要素だけがジャンルを形成する。「ウェスタン」という設定は興味をひくが、「ニュージャージーもの」は興味をひかない。また、鑑賞と解釈のための期待をもたらすような要素でもある。『プライベート・ライアン』(1998)を戦争映画として見るからこそ、暴力性で台無しにはなっていないと解釈する。コメディだからこそ最後はハッピーエンドだろうと期待するなど。「芝刈り機もの」として見てもなんら助けにならない。よって、定義としては、

カテゴリーKが映画ジャンルであるのは以下かつそのときに限る。Kは、さまざまなバックグラウンドを持つ複数のアーティストによって作られた複数の事例を持ち、かつKには、その観客の鑑賞と解釈に影響するような特徴がある。

この定義において、ひとつの映画は複数のジャンルにも属すことができる。アクション・コメディや戦争フィルム・ノワールなど。また、ジャンル+別のメタカテゴリーというケースもある。「ヒッチコック・スリラー」「香港アクション」「クラシックコメディ」など。さらに、ある作品の映画ジャンルが、後世において別のジャンルに変わるケースも考えられる。

ところが、上の定義を満たしつつ、ジャンルであるとは考えづらいカテゴリーとして、「三時間以上の映画」「R指定映画」「ハッピーエンド映画」「外国語映画」もある。応答としては、これらも実は映画ジャンルであるといって凌ぐか、そうでなければ定義は十分でなく、修正が必要だと考えるしかない。また、よい理論は正しい問いを伴う、という点から評価すれば、上の定義は「なぜ映画ジャンルは美的決定や判断に影響するのか」という問いが排除されてしまっている。一方、形式や効果や様式や設定が各ジャンルを定義するので、「それぞれの要素いかにして美的決定や判断、解釈や鑑賞に影響するのか」という問いを提起している。


3.ジャンルの存在論

映画ジャンルはどのような存在者なのか。物理的対象か、性質か、出来事か、集合やタイプのような抽象的対象か。「集合」というだけではなにがジャンルになるのかわからないし、「情動効果」など特徴付けても結局集合なのかタイプなのか個別者なのかわからない。

さしあたり、ジャンルに関する実在論と唯名論が考えられる。Goodman (1976)にならう唯名論者によれば、しかじかの映画作品にそのラベルを適用[apply]する以上に、ジャンルという存在者は実在しない。唯名論はジャンルの身分に関する問題を回避できるが、解釈や鑑賞における役割は説明できそうにない。ラベルは示唆されているもの読み取りにも役立たないし、美的性質帰属の土台にもならない。

実在論はジャンルを集合とみなすかもしれないが、集合は定義上、メンバーが変わると変わる。 新しいホラー映画が作られるたびに「ホラー」カテゴリーが別のものになっていくようでは困る。比較のためのクラスとして用いるにはいまいち。

よりマシな実在論は、Wollheim (1980)にならい、ジャンルをタイプ[type]とみなす。タイプは集合とは異なり、メンバーではなくタイプの構成的性質によって定義される。よって、タイプとしてのジャンルがどのような構成的性質を持つのか考える線がよさそう。ジャンルの存在論はまだ始まったばかり。


4.ジャンルと価値

ジャンルと映画作品の価値はどう関係するのか。ここでは三つの問題を取り上げる。①ジャンル映画は価値が低く、最良の映画はジャンル映画じゃないのか?問題。②ドラマはアクションより良くて、風刺はコメディよりも良いみたいな優劣がジャンル間にはあるのか。③作品があるジャンルK“として”良いとはどういうことか。

①ウッディ・アレンみたいなアマチュア映画は、テンプレなジャンル映画ではないがゆえに素晴らしい、と評価されがち。いかなるジャンルにも属さない、“オリジナル”な作品のほうが、ジャンル映画よりも優れているのか。

Laetzらはこの見方に反対する。オリジナルな映画を上回るテンプレなジャンル映画はふつうにある。また、テンプレだからといってオリジナリティがないとは限らない。一番はじめに作られたSFやホラー作品は、ジャンル映画とされるオリジナリティを持つ。すなわち、ジャンル映画であることとオリジナリティを持つことは矛盾しない。また、真にジャンルレスな映画は考えづらい。ホラー、アクション以外はだいたいドラマだと言っていいし、『アニー・ホール』(1977)はコメディである。


②ジャンル間の優劣を付けられることはよくあるが、問題は、どの作品をそのジャンルの代表として格付けするのか、だ。十分に洗練されておらず、しょうもない実例しかないジャンルもある(この場合、ジャンルの真価を発揮した作品がないというだけで、ジャンルが劣っていると考えるべきではない)。理想的なコメディやホラーを想定して比べるとしても、なぜ優劣が言えるのか定かではない。

映画ジャンルごとに道具的価値は異なる。ホラーは怖がらせるのが得意であり、歴史映画は歴史伝えるのが得意なように、目的がそれぞれ異なる。目的の重要さからジャンルを格付けすることもできるが、ふつう、どんな目的が大切かは状況に寄る。一概に、感動させるドラマは笑わせるコメディよりえらいとか言えない。また、美的経験を与えるという共通目的において格付けする線も考えられるが、なにによって美的経験を得るかは個人の趣味次第でもある。これを議論するためには、だいぶときっちりした「美的なもの」の定義が求められる。


③最後に、作品をあるジャンルとして評価するとはどういうことか。前提として、作品が「そのジャンルKに属する」という信念だけでなく、ジャンルKの慣習などについての信念が求められる。Laetzら曰く、

観客Sがある映画をジャンルKとして評価するのは以下のときに限る。(1)SはKに関する信念をいくらか持っており、かつ(2)評価の内容は、SのKに関する信念に反事実的に依存している。

ある映画を時代劇として評価するためには、まずもって時代劇に関する信念が要求される。かつ、まさにこの信念によって、評価が左右されているのでなければならない(反事実的依存:信念がなかったとしたら、別の評価をしていただろう、ということ)。上の定式は出発点に過ぎず、おそらく信念は「正しい信念[true belief]」でなければならない、みたいな補強が必要だろう。


✂ コメント

いずれも、考えられる論点を入門的なレベルで並べているだけなので、そんなに情報量のある論文ではない。

作品評価におけるジャンルの役割は、そのままウォルトンのカテゴリー論なので、その他のカテゴリーにはないジャンルナラデハの役割を取り出せれば面白い議論になりそうだと思った。そういえば、ウォルトンはメタカテゴリー間における性格の違いについても論じていただろうか(覚えていない)。

個人的に気になるのはむしろ作品解釈におけるジャンルの役割だ(基本的に、私の芸術哲学的関心は評価よりも解釈にある)。「ジャンルの“お約束”によって、示唆されている事柄の読み取りを助け、展開への期待を促す」という大筋には同意するが、こちらもあまりジャンルナラデハの話という感じはしない。「ヒッチコック映画」はジャンルじゃないが、〈ヒロインがひどい目にあう〉という期待や解釈を支持する点ではジャンルと同じような役割を果たすだろう。

ジャンルの定義と存在論はそんなに関心のある話題ではなかった。存在論はいつもながら、「Xの存在論」みたいなのをいっぱい増やしていく必要はないよな、と思った。ジャンルの存在論的あり方がそんなに特異とも思われない。

ジャンル映画よりジャンルレス映画のほうがえらい、という見解はよく考えてみると結構面白い。そもそもの前提として「型にハマったものにはオリジナリティがなく、良くない」という見込みがある。Laetzらは「型にハマったものでもオリジナリティを持ちうる」という線で反論しており、そりゃそうだと思うが、「オリジナリティを持つべきだ」という前提は維持されている。「ジャンル映画よりジャンルレス映画のほうがえらい」論とはもうちょっと別の戦い方もあるような気がしている。どうでもいいが、私はウッディ・アレンがぜんぜん好きになれない。

ところで、映画ジャンルと音楽ジャンル(あるいは文学ジャンル)の違いを考えたときに、後者のほうがある種の真正性に関する要請が強いのではないか、と思い至った。「こんな音楽はロックじゃない」という批判は、「こんな映画はSFじゃない」という批判よりも辛辣な気がするが、ジャンルと真正性の結びつきに関しては音楽ファンのほうがシビアなのかもしれない(気のせいかもしれない)。あるいは、「ジャンルKである」ための要件は映画のほうがゆるいのかもしれない。ジャンルを形成する要素として挙げられているものを踏まえると、音楽ジャンルには様式や形式だけでなく作者の社会的要因が絡む面があり、ひとことに「ジャンル」と言っても、映画ジャンルと音楽ジャンルは結構性格の異なるメタカテゴリーなのかもしれない。少なくとも、本論文の話はほとんどが音楽ジャンルには当てはまらない、というのが面白い。この非対称性は気になる。

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