見出し画像

ジャンル研究の方法論②

その①はこちら。

相変わらず、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」式の研究の正解は分からないが、ここ一年でジャンル論についてはいろいろと読み、論文も書いているところなので、専門トピックのひとつに「ジャンル」を数えてもよい頃だろう。同じく、ジャンル概念に関心を向けているローン・スター大学のEvan Maloneによる論文「ジャンル爆発の問題[The Problem of Genre Explosion]」を読んできたのでご紹介。

ホラーとはなにか、SFとはなにか、といった個別ジャンルの哲学も気になるが、それらをまとめあげている「ジャンル」とはそもそもなんなのか。

ジャンルの諸理論

Maloneの整理によれば、既存のジャンル理論はおおきく分けて3つある(2つ目は1つ目の一種なので、厳密には2つ)。以下Maloneの紹介を手がかりに、それぞれ定式化してみよう。

特徴説:ジャンルとは、一連の特徴を共有する作品群をまとめたもののことである。

共有される特徴については、厳密に規定された必要十分条件を求める派(Todorov 1973)と、もっとゆるく適用される条件のクラスターでいいとする派(Currie 2004; Friend 2012)がいる(詳しくはその①を参照)。前者によれば、カウボーイ、転がる草、真昼の決闘、砂漠の景色などが描写されることは、それぞれ西部劇であるために必要であり、合わされば西部劇にとって十分である。後者によれば、そのうちのいくつかを持っていることが必要であり、多くを持っていれば十分である。いずれにせよ、西部劇である作品群は、一連の特徴を共有した作品群として説明される。

次の機能種説は、機能に関する特徴にフォーカスした、特徴説の一種である。

機能種説:ジャンルとは、特定の機能を共有する作品群をまとめたもののことである。

ホラーは恐怖を引き起こし、コメディは笑いを引き起こす。情動喚起だけでなく、例えばドキュメンタリーは主張を行う、という風に機能が記述できる。最近邦訳が出たNoel Carroll『ホラーの哲学』も、ホラーをその機能から定義している。

機能種説の代表はAbell (2015)だ。AbellもCarrollもそうだが、機能種説の論者は、しばしば意図主義を説明に組み込む。あるジャンルに属するためには、たとえ現にその機能を果たせていないとしても、意図さえされていればOKである。これは、怖くないホラー映画をホラー映画としてカバーするための戦略だ。Abellはこういった意図された機能を、「目的」と言い換えたりしている。ということで、同じジャンルに属する作品群とは、特定の目的(意図された機能)を共有した作品群だ、ということになる。意図主義の問題点については後ほど触れる。

最後に、Evnine(2015)に代表される伝統説がある。

伝統説:ジャンルとは、特定の歴史的文脈において、先立つ作品を参照してきた一連の作品群や、それに携わる人々から成る総体である。

SF作品とは、それ以前のSF作品を参照し、影響を受けた作品のことである。SFとは時空間的部分を持つ個別の伝統であり、その一部分をなしていることは、SF作品であるために必要かつ十分である。具体的なある時点でジャンルが誕生し、互いに影響しあうことで発展していくことを、伝統説は尊重する。

「ジャンル爆発」の問題

Maloneによれば、既存の説明はどれも彼が「ジャンル爆発」と呼ぶ問題にまきこまれる。要は、条件としてゆるすぎて、なんでもかんでもジャンルになってしまうという懸念だ。

なんらかの特徴を共有するだけでいいなら、適当に条件を規定するだけで"ジャンル"が出来上がってしまう。「Qで始まりPで終わる小説」や「幅が2〜5フィートの彫刻」を満たすものを集めてきただけで(そうしたければ適当にジャンル名を付けただけで)ジャンルになる、とはあまり言いたくない。こういった、まったく恣意的な作品集合から、有意義な「ジャンル」を切り出さなければならない。

機能種説も同様だ。なんらかの機能や目的を共有するだけでいいなら、考えられうる機能や目的の数だけ、ジャンルが膨大に存在することになる。「怖がらせる」ことを目的としたホラージャンルがありなら、「倦怠感を与える」ジャンルもありになるだろう。意図主義を組み込んだとしても、このようななんでもありは回避できない。アーティストが金儲けを目的として作った作品たちが、合わさってひとつの"ジャンル"を成すと考えるのはおかしい。

伝統説の場合、ある作品とそれに影響を受けた別の作品があれば、その2つだけで"ジャンル"を成してしまう。作品間の影響関係はあちこちにあるので、またしても潜在的には膨大な数の"ジャンル"が存在してしまう。

[注] ここでひとつコメント。私の考えでは、Maloneによる懸念はやや大げさである。実際のところ、そんななんでもあり理論を支持している論者はいないからだ。特徴説も機能種説も伝統説も、たいてい+αの必要条件があり、それによってジャンル爆発の問題を回避している。そして、私の見たところ、しばしば採用される+αとは実践や慣習や制度の存在であり、このアプローチは以下でMaloneが提示しようとする代替案と、方針においてほとんど同じである(Abell 2015; Evnine 2015; Terrone 2021)。この検討すべきポイントを検討せず、藁人形叩きに終始しているのは本節の問題点だろう。

ジャンルと意図

Malone論文に戻ろう。

既存のジャンル理論がどれも広すぎるなら、ただ特徴や機能を持っていたり、伝統に属するだけでなく、そうであることを作者が意図しているという要件を加えてみてはどうか。Maloneはまずジャンルに関するソフトな意図とハードな意図を区別する。「ジャンルGのメンバーはFである」というジャンル理論を踏まえ、Fであるものを作ろうとするのがソフトな意図、直接Gであるものを作ろうとするのがハードな意図だ。Maloneはこちらのハードな意図主義だけを検討している。

[注] ここもやや藁人形みがある。そんなキツイ意図主義を支持する論者はほとんどいないだろう。

Maloneによれば、ジャンルに関する意図主義にはいくつか問題がある。まず、機能種説についてすでに確認した通り、意図を組み込んでもまだゆるすぎるかもしれない。むしろ、現にFでなくてもジャンルGであることを意図さえされていればよい分、さらになんでもありになってしまう。

次に、意図主義は作品が偶然あるジャンルに属するケースや、あとになってからあるジャンルに属するケースを許容できない。加えて、意図主義はジャンルの発明を説明するのが困難である。ジャンルは多様な仕方で発明されるはずだが、意図主義は作者によってはっきりと意図された発明以外を許容できない。Maloneはこれを「ジャンル発明」の問題と呼ぶ。

そういったケースがあること、そして理論によって許容すべきだ、ということについてMaloneはとくに論証していない。他の文献を読む限り、Maloneはチルウェイヴのような、彼が「マイクロジャンル」と呼ぶところのジャンルたちをとりわけ念頭に置いているようだ。そういったジャンルの発明やそれらへの所属に関して、作者の意図がほとんど役割を果たしていないとMaloneは報告する。この辺の観察についてはもっと正当化があってもよいと思うが、ともかく方針は私も共有している。意図主義で説明できる/されるべきジャンル実践は、あまりに限定的なのだ。

ジャンルと実践​

既存のジャンル論は、どれもジャンルとは言いたくないような、単なる作品集合までジャンル扱いしてしまう点に問題があった(ジャンル爆発の問題)。誰も気にかけない、恣意的で偶然な作品集合を、ジャンルから排除する必要がある。

よって、ジャンルとはそれを気にかけ、重要視するような美的コミュニティが存在する作品集合であるとMaloneは考える。作品のグループ化自体は恣意的でも、それを集団的に気にかける実践が存在すれば、それはジャンルとなる。芸術家や鑑賞者や彼らのふるまいが、ある作品集合をジャンルにするのだ。こう考えることで、ジャンル爆発の問題とジャンル発明の問題に対処できるとMaloneは考えている。

Maloneは近年の共同体主義的な美学理論(KubalaRiggle)にインスパイアされている。美的実践における価値や行為選択の理由は、個人にとっての快楽の有無ではなく、集団としての規範によって左右される。各ジャンルをとりまく美的実践も、そのジャンルのコミュニティのメンバーに共通のアイデンティティやファッションセンス、ジョーク、特別な倫理的義務などの感覚を与えてくれるとMaloneは述べる。Maloneによる実践説は、次のように要約してもよいだろう。

実践説:同じジャンルに属する作品群とは、そのまとまりを美的に重要なものとして扱うコミュニティが存在する作品群のことである。

✂ コメント

その①で、伝統説はジャンルに関する美術史的な探求と相性が良い的なことを書いたが、実践説はジャンルに関する社会学的・社会科学的な探求と相性が良いと言ってもよいかもしれない。

私はその方針を正しいものだと考えている一方で、Maloneによる説明はさすがに不十分だと思っている。実際、それは誰も気にかけない作品集合を排除するために、〈誰かが気にかける〉ことを規定しているに過ぎない。それは説明ではなく、実のところ課題の再確認でしかないだろう。問題は、ジャンルがコミュニティと結びつくとはどういうことなのか、である。

例えば、Maloneが機能種説として安易に退けてしまったAbell (2015)は、ジャンルの目的や手段に関して共通知識が成り立っていることを要件としている。これは、実質的にMaloneと同じ実践説だし、Maloneには欠けている詳細な説明を含んだ説だと言える。私自身による説明は、今度出る『Debates in Aesthetics』収録の論文を参照いただければよいが、おおまかには、ある種の鑑賞的ふるまいを統制するルールに従うことがコミュニティにおいて均衡をなしている(すなわち制度となっている)ことから説明するというものだ。

前に個人的に送っていただいたドラフトを見る限り、Maloneはいまジャンル実践説について深堀りした論文を別で準備しているみたいだ。さらなる議論はそちらに期待したい。


もうひとつ、私が問題だと考えているのは、共同体的に気にかけられる作品集合には、ジャンルだけでなく、形式、様式、メディア、運動、ある芸術家の全作品、ある時代や地域の作品など、さまざまなタイプがあることだ。Maloneは、そういった各種メタカテゴリーのなかから、ジャンルのみを切り出せているわけではない。

思うに、Maloneの議論は、「単なる芸術のカテゴリーから意義あるジャンルを切り出す」という本人の記述に反し、「単なる作品の集合から意義ある芸術のカテゴリーを切り出す」ことに終始している。おそらくMaloneはclassと同義の、まったく中立的な意味でcategoryを用いているが、少なくとも芸術哲学において「カテゴリー」という語を広めたWaltonが考えていたのはそこまで中立的な意味ではない。カテゴリー論やジャンル論は、(1)まったく恣意的で誰も気にかけない作品の集合(作品のクラス)、(2)それを気にかけるコミュニティが存在する芸術のカテゴリーたち、(3)そのうち、特別なタイプのものであるジャンルたち、という三段階で考えるべきなのだ。(1)→(2)の話をしているMaloneは、厳密にはまだジャンル論を展開できていない。例えば、「ヒッチコック作品」というカテゴリー(ヒッチコックのoeuvre)は、明らかにそれを気にかけるコミュニティが存在するという意味でMaloneの説明では「ジャンル」になってしまう。ジャンルというメタカテゴリーが持つ独特な含みを捉えるは、もう一歩踏み込んだ限定が欲しいのだ。


さて、それはそれとして、実践説が正しいとしたら個別ジャンルに対する探求はどのように行われるべきなのか。おそらくその焦点は、芸術作品そのものがどのような特徴を持つかよりも、それらに対してあるジャンルの参与者たちがどういうふるまいをしているかに当てられるべきだろう。いわゆる社会存在論と実践説の相性も良さそうだ。「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」と問うときには、そのジャンルに親しんでいる者たちがどのようなルールや規範を採用しており、コミュニティがどのような仕方で生成・発展・維持してきたのかを観察することが重要な仕事となる。別の論文でチルウェイヴの発展史を記述しているMaloneも、この点に意識的なのだと思われる。(Maloneはカントリーにも精通しているらしく、カントリーの真正性についての論文ももうすぐBJAに載る予定だ。)



いいなと思ったら応援しよう!