見出し画像

美的に良いものはなにゆえ良いのか

美的価値に関する快楽主義

芸術作品なり風景が、美しかったり優美だったりしてとても感じがよいときに、それらは「美的価値が高い」と言う。このような美的価値の本性に関してはさまざまに議論があるが、その中心には「快楽主義」という立場がある。

美的価値に関する快楽主義:Xの美的価値とは、Xが与えられる美的快楽(満足、楽しみ、喜び)の度合いである。

快楽主義において、美しい風景や優美な絵画が「高い美的価値を持つ」と言われているときに言われることとは、それらが「大きな美的快楽を与える能力を持っている」ということである。より大きな快楽を与えるものほど、より大きな価値を持ち、ちょっとした快楽しか与えられなかったり、むしろ不快にさせるようなものは、価値が低い。

快楽主義はシンプルで分かりやすい答えであるだけでなく、美的価値が行動選択に理由を与えるという側面についても説明しやすい。すなわち、より美的価値の高いもの(娯楽、芸術、活動、など)を選択するのは、それがより大きな美的快楽を与えてくれそうだからだ。Aは楽で気持ちいい、Bはしんどくてきついと言われたら、合理的な人間はそりゃAを選択するだろう。

快楽主義に差し向けられる第一の反論は、快楽を感じるかどうか、ひいては価値を見出すかどうかが、どうも人それぞれっぽい、という事実だ。シェイクスピアが好きな人もいれば、P・G・ウッドハウスのほうが好みという人もいるだろう。古き良き老舗の喫茶店がいいという人もいれば、サードウェーブのコーヒースタンドがいいという人もいる。『2001年宇宙の旅』より『プラン9・フロム・アウタースペース』のほうが優れている、という人すらいるかもしれない。好みはそれぞれで、各々が感じる快楽や見出す価値がそれぞれなのだとしたら、ものの客観的な美的価値は言えないのではないか、という気がしてくる。

快楽主義の修正と残された課題

このような懸念に対して、伝統的になされてきた修正案とは、「快楽を与える能力の度合い」を測定する主体として、理想的批評家・理想的鑑賞者を据えるというものだ。すなわち、

理想的批評家に訴える美的快楽主義:Xの美的価値とは、(理想的鑑賞条件におかれた)理想的批評家に対して、Xが与えられる美的快楽(満足、楽しみ、喜び)の度合いである。

注意散漫で、経験や知識もなく、偏見だらけの素人より、注意深く、経験や知識を持ち、慎重なプロの批評家がいたならば、われわれはふつう後者の価値判断を信用するだろう。病気が正確にどれだけ深刻かは一流の医者にしか見抜けないように、ものが正確にどれだけ美的価値を持つかは一流の批評家にしか見抜けない、というわけだ。

しかし、理想的批評家説を加えた美的快楽主義は、美的価値が行動選択に理由を与えるという側面について、ひとつの問題を抱えることになる。それは、Levinson (2002)によれば、「なぜ理想的批評家の判断を気にする必要があるのか」というものだ。とどのつまり、われわれが理想的批評家ではなく素人なのだとしたら、なぜ理想的批評家の選択にならう必要があり、いま手元にある低俗?な娯楽は手放すべきだとまで言われるのか。

Levinson自身の見解は快楽主義を維持したものであり、端的に言えば、そうしたほうが結果としては大きな快楽を得られるから、というものだ。ちゃんと勉強し、適切な訓練を積んだ上でシェイクスピアを紐解く者は、へらへらとウッドハウスを読んでいる者よりも、大きな/高尚な/意義のある美的快楽を味わう見込みが高い。それゆえ、快楽を追求することが合理的である限りで、素人は理想的批評家を目指すべきであり、理想的批評家の見出す価値を客観的なものとして認めるべきだ、という具合になる。

理想的批評家説を加えた美的快楽主義は、美的価値やその規範性を考える上でデフォルトの理論となっているが、近年、この立場を見直そうという動きが目立ってきた。その筆頭はドミニク・ロペス[Dominic Lopes]のネットワーク説である。

(ちなみに、快楽主義には、美的な快楽とその他の快楽を区別するという課題もある。本稿では、美的○○とその他の○○の区別問題についてはひとまず触れないことにする。)

美的価値に関するネットワーク説

(ここまで整理してきた問題の所在、およびLopes (2018)の立場については高田さんの発表原稿森さんの論文1森さんの論文2が詳しいので、基本的にはそちらを読んでいただければよい。)

ここからやりたいのは、美的価値に関する今日の論争が論理的に言ってどう進展しうるのかを、おおまかにスケッチしてみることだ。そして、その作業に関連する限りで、Lopes説の要点を再構成してみたい。

実際、ネットワーク説の細部は私には紹介しかねるのだが、ともかく、ポイントは大きくふたつあると思う。

①美的な選択を理由づけるのは、快楽ではなく、達成[achievement]
②達成の度合いを測定するのは、理想的批評家ではなく、実践ごとのローカルエキスパートたち

Lopesにおいて、美的価値のあるものを選択する理由が付与されるのは、そうしたほうがより大きな快楽を得られそうだからではない。そうしたほうが、選択者の能力の発揮において、より大きな達成を成し遂げられそうだからだ。そして、なにが達成となるかは実践ごとに異なる。Lopes好みの例だと、ダンス教室の講師は、集客という目的を成し遂げるために、個人的には快楽をほとんど感じない流行りの曲を課題曲に選んだりする。流行りの曲は、講師本人がそこから得られる快楽の度合いとは独立に、ダンス教室という実践と相対的により大きな達成をもたらす選択肢なのだ。

Lopesのネットワーク説は、美的快楽主義における①快楽を別のアイテムに取り替え、また、②理想的批評家を別のアイテムに取り替えている

第一に、上で「美的快楽(満足、楽しみ、喜び)」と書くことで、私はすでにこの立場をわりと許容的なものとして紹介したわけだが、それでもなお、美的価値の高いものが与える経験は、快楽、満足、楽しみ、喜びだけではなさそうだ。つまり、美的快楽というアイテムに一元化するのでは、狭すぎるのだ。ダンス教室の講師はその曲にうんざりするかもしれないし、いくら山頂の風景が見たい登山客でも、そこに至る過程でくたびれてしまうかもしれない。現代アートには、真っ二つになった牛やら床下でマスターベーションする男性やら、人を不快にさせる“名作”がぎょうさんある。総じて、美的な実践やそこにおける選択は、快楽のみに駆動されたものとは限らない、というのがLopesの観察である。

第二に、理想的批評家いう、実際のところ実在すらせず、不必要に個人主義的で理性偏重なアイテムは、美的実践の多様性にいまいちそぐわないものだろう。ゆえに、価値を測定する主体を、そんな仮説上の人物に求めることなく、それぞれの実践において成立している内的規範に求めるのは、理にかなった方針だろう。実際、この「みんなで決めよう」という方針は、伝統的な説明にも見られる。理想的批評家説のおおもとであるヒュームも、理想的批評家の間に多少の好みの差を認め、その共同評決においてものの美的価値が決まる、という枠組みを提示していた。端的に言えば、ものの価値は唯一絶対のチャンピオンが決めるのではなく、その実践において卓越したローカルエキスパートみんなで決めるのだ。

①快楽では狭すぎるので、行為選択の理由づけとなる別のアイテムを探す、②理想的批評家では狭すぎるので、美的実践やその参与者集団へと相対化させる。このふたつの方針は、快楽主義を見直そうとする立場が、多かれ少なかれ採用を検討するオプションとなっている。例えば、ニック・リグル[Nick Riggle]が美的コミュニティの重要性を訴えるのは、基本的にLopesの②の方針にならったものだと思われる。ほかにも、ベンス・ナナイ[Bence Nanay]は理想的批評家が必要になる手前の段階で、ある程度の主観主義を認めているようだが、その上で美的価値を達成として説明しようとしている点で、Lopesの①にならっていると言えるだろう。まだ読めていないが、このトピックの必読本となりそうな『Aestetic Life and Why It Matters』は、反快楽主義をゆるやかに共有したこの三人によって書かれている。

(RiggleとNanayの立場は、Zoomのプレゼンで概要が掴めるので、英語わかる人にはおすすめ)

ネットワーク説へのひとつの懸念

私は、少なからず美的快楽主義のほうにシンパシーを感じているため、Lopesらの方針にはいくらか懸念がある。

②の方針、すなわち、理想的批評家を使うのは不都合なので、価値を美的実践やその参与者集団へと相対化させようという方針については、大きな異論はない。とどのつまり、それは、実態にも沿っているように思われるのだ。ある特定の仕方でピアノを演奏することは、クラシックピアノという文化実践の規範であり、それに参与する演奏者は、そういった仕方で演奏することに価値を見出し、そういった仕方で演奏するべきである。しかし、ジャズピアノという文化実践に参与する演奏者は、そんな規範を気にする必要はないだろう(そして、おそらく別の価値基準や規範があるだろう)。理想的批評家がどちらに価値を認めるか、というのでクラシックピアノとジャズピアノに客観的な優劣がつけられる、というのは明らかに馬鹿げている。

前に、芸術批評における「正しいカテゴリー」について発表したことがあるが、そこでは私もある種の解釈規範や価値基準が制度的に生じるという主張をしている。しかし、その源泉については、より快楽主義的な前提をとっている。

ということで、Lopesらの①の方針に関しては、より明確な懸念がある。達成の見込みが行動選択の理由を与える、というのはとどのつまりどういうことなのか。それは結局のところ、達成すれば直接ないし間接的に気持ちがいいからこそ、その行動を選んでいるのとなにが違うのか。つまり、ダンス教室の講師は、その選択によって集客が実現すると、自らの参与する美的実践において達成になり、そのことが当人に美的快楽を与えるからこそ、短期的には美的快楽を得られない曲を課題曲に選定しているのではないか。登山客も同様である。つまるところ美的な領域において、人間は、自らにとっての身体的・精神的快楽に直接的にも間接的にもつながらない選択をして、なお合理的だと言えるのか。もちろん、背景には功利主義的な直観がある。高田 (2018)の懸念を引き継ぎ、「行為者にはなぜそもそもエキスパートとしての達成を目指す理由があるのか」を考え出すと、「深い説明」としては結局「そうすることに快楽が見込まれるから」となってしまうのではないか。

あるいは、ダンス教室の講師は、その流行の曲が、自分はともかく生徒たちには大きな快楽をもたらすと見込んでいるからこそ、それを選ぶのではないか。これは快楽主義を利他的なものにまで拡張する方針だが、ともかく当のケースは達成概念を持ち出すことなく、快楽概念で説明できそうなのだ。一言で言えばこうだ。

ネットワーク説へのひとつの懸念:達成を目指すことは、快楽を目指すことに還元できるのではないか。

好きなことをやるにせよ、得意なことをやるにせよ、帰結として期待される快楽の大小を気にすることなく選択がなされる、というほうが奇妙なのではないか。好きではないけど得意なことを割り切ってやっている人は、好きだが苦手なことをやって失敗続きの苦痛を味わうよりも、そっちのほうが精神衛生上良いからそうしている、ということもあるだろう。達成を優先して行動選択することは、いまだに、快楽を優先して行動選択することに還元されてしまうように思えてならないのだ。

あるいは、ダンス教室の講師が実際に快楽よりも達成を優先しているとして、その選択は“美的な”選択だと言えるのか。流行の曲に見出しているのは、美的な価値ではなくまた別の価値なのではないか。儲けたい、有名になりたいからそれを選んでいるだけではないか。ここには、本稿ではスキップしてきた「美的なものの区別問題」がある。ダンス教室が美的な実践だからといって、そこに含まれる選択や理由や規範が美的なものばかりとは限らない。

その他の可能な立場

理想的批評家を持ち出す美的快楽主義に対して、①快楽とは別のアイテムを使う方針と、②実践に相対化させる方針を見てきた。

①については、Lopesのように達成概念を持ち出すことが、結局快楽に還元されるのではないか、という懸念を表明してきた。もちろん、達成以外のアイテムを探す道は残されている。具体的には、愛、コミットメント、アイデンティティの追求、誓い、義務など、さまざまな代替案が模索されている。ここでも、おそらくは正しく、しかしほとんど面白みのない答えとは、源泉の多元主義であり、なにに美的価値を見出すかは人それぞれケースバイケースだというものだ。

②の方針はますます受け入れられていくだろう。あわせて、内的規範を共有する実践とはどのようなものか、なぜそこに規範性が伴うのか、どれぐらい強い規範なのか、といった論点も注目されつつある(この辺は、Kubala (2021)(2020)をチェックするとよい)。いま一度、超実践的で普遍的な価値基準を打ち立てるなら、おそらくは自然主義的アプローチ(美しさの経験には、認知科学的な共通基盤がある、みたいな説明)が残されているが、これがどこまで有望な道かは分からない。

ここまで見てきたのは、どれも快楽主義を出発点として、価値の基盤を個人や集団といった主体に求めるものだった。つまり、ものに美的価値を帰属できるのは、それに関与する主体の側になんらかの事実(ポジティブ/ネガティブな反応や、達成/失敗)が成り立っているから、というのを暗黙の前提としてきた。ネットワーク説もこの点では変わらない。

美的価値の基盤を主体側の事実に求める「主体説」とは別に、ものの側の事実として端的に美的価値があるとする立場があり、こちらは「対象説」と呼ばれている。近年の代表格はShelley (2021)だが、私の理解ではノエル・キャロル[Noël Carroll]もこの立場だ。ちなみに、主体説および快楽主義のルーツのひとつはモンロー・ビアズリー[Monroe Beardsley]だが、彼は主体説と対象説の両方からアプローチする、ちょっと特殊な立場(美的経験を特徴づけつつ、美的性質も特徴づけている)として位置づけるべきだろう。

主体の反応に関わらず、ものの側に実在的な性質として価値があるなら、快楽主義もろもろの問題については答える必要すらなくなるだろう。対象説は面白そうだがまだ駆け出しなので、Shelleyにがんばってもらいたいところだ。

まとめと文献案内

美的価値に関するいろんな立場を見てきた。復習として、King (2022)の整理を見てみよう。

まず対象説と主体説に分かれる。前者は、美的対象側に由来する事実が、行為選択の理由を与えるとするが、後者は対象に関与するわれわれ側に由来する事実が、行為選択の理由を与える。

対象説は、対象のうちどのような性質にフォーカスするかで立場が分かれる。具体的には、①ある種の感覚的性質に訴える対象説、②ある種の概念的・物語的内容にも訴える対象説、③さらに進んで、歴史的、道徳的、その他の状況的文脈も関与的だとする対象説などが含まれる。①なら形式主義になり、②③なら文脈主義になるだろう。

主体説には三つの論点がある。(i)現実的主体か理想的主体か、(ii)個人的主体か共同体的主体か、(iii)反応的主体か非反応的主体か。本稿のたたき台となった理想的批評家に訴える快楽主義は、理想的+個人的+反応的主体を想定していることになる。

Lopesのネットワーク説は、現実的+共同体的+非反応的主体を想定していたはずだ。これに対しては、自らの快楽を度外視し、実践における達成の見込みだけで行動を選択するというのは実態に即していないのではないか、という懸念を表明してきた。達成を見込んで行動できるのは、なんだかんだそれと同時に/その先に快楽が見込まれるからではないか。これについては、Lopes (2018)をちゃんと読み込んでから考え直したい。ちなみに、Riggleは現実的+共同体的+反応的主体で、Nanayは現実的+個人的+反応的主体を想定しているような気がする。

美的価値、美的理由、美的規範まわりの議論は、ここ数年かなり激アツなので、もっとたくさんの人が参入して各々の見解を述べてほしいと思う。

高田敦史 (2018). 美的価値と行為の理由. 日本大学文理学部人文科学研究科第13回哲学ワークショップ, 発表資料.
森功次 (2020). 美的なものはなぜ美的に良いのか:美的価値をめぐる快楽主義とその敵. 『現代思想 特集:現代思想の総展望2021』, 49(1):86-100.
森功次 (2021). われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか :理想的観賞者と美的価値をめぐる近年の論争から考える. 『人間生活文化研究』, 31:365-381.
Kubala, R. (2020). Aesthetic Obligations. Philosophy Compass, 15(12):e12712.
Kubala, R. (2021). Aesthetic Practices and Normativity. Philosophy and Phenomenological Research, 103(2):408-425.
King, A. (2022). Reasons, Normativity, and Value in Aesthetics. Philosophy Compass, 17(1):e12807.
Lopes, D. (2018). Being for Beauty: Aesthetic Agency and Value. Oxford University Press.
Lopes, D., Nanay, B., & Riggle, N. (2022). Aesthetic Life and Why It Matters. Oxford University Press.
Nanay, B. (2019). Aesthetics: A Very Short Introduction. Oxford University Press.
Riggle, N. (2022). Toward a Communitarian Theory of Aesthetic Value. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 80(1):16-30.
Shelley, James (2019). The Default Theory of Aesthetic Value. British Journal of Aesthetics, 59(1):1-12.
Van der Berg, S. (2020). Aesthetic Hedonism and Its Critics. Philosophy Compass, 15(1):e12645.
(2021). [Book Symposium] Being for Beauty: Aesthetic Agency and Value. Philosophy and Phenomenological Research, 102(1).

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?