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ジャンル研究の方法論

「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」

「SFとはなにか」みたいな問いがある。別にホラーでもサスペンスでもマジックリアリズムでもなんでもよいのだが、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」を問うときには、ざっとふたつの回答がある。

一方は、ジャンルの特徴を挙げるような回答だ。これはしばしば、必要十分条件によって提出される。「SF作品とは特徴Fを持った作品であり、特徴Fを持たない作品はSFではない」といった説明だ。

他方は、ジャンルの伝統を記述するような回答だ。「ヴェルヌとウェルズに始まる特定の歴史的系列に連なる作品群こそが、SF作品である」など。

Terrone (2021)は、前者のアプローチを「概念としてのジャンル[Genres-as-Concepts]」、後者のアプローチを「伝統としてのジャンル[Genres-as-Traditions]」と呼んでいる。SFだと、Suvin (1979)が前者に相当し、Evnine (2015)が後者に相当する。

EvnineがSuvinを批判するように、「概念としてのジャンル」定義はジャンルの歴史的側面を説明できないのがしんどい。Abell (2015)も指摘するように、ジャンルには歴史があり、時代によって典型的とされる特徴群が異なりうる。ある一定不変の特徴(必要十分条件)がジャンルと結びついている、という説明は、こういった歴史的変化と噛み合わない。実際、Suvinの定義は記述的というよりも改定的なものだが、そうだとしても望ましいものではないだろう、と。

ということで、「伝統としてのジャンル」のほうがベターに思われるが、テローネは「概念としてのジャンル」の要請を緩める方針で、こちらを改良しようとする。要は、一定不変の必要十分条件があるなんて考えるからしんどいのであって、「ジャンルGは典型的には特徴Fを持っているが、特徴Fを持っていないからといってジャンルGではないとも限らない」ぐらいまで緩めればよい。いわゆるクラスター説というやつだ。「SF作品とは、特徴F1, F2, F3……のうち、n個以上を満たすような作品」であり、また、定義を構成している特徴群は時代によって変化しうるダイナミックなものである。こういう仕方でジャンルと特徴群を結びつけることを、必要十分条件の提示という意味での「定義する[define]」から区別して、「特徴づける[characterize]」と呼んでみてもいいかもしれない。

実際、テローネも注で触れている通り、この議論は「芸術の定義」とまったく同じ流れになっている。芸術作品かどうかを必要十分条件によって定めるのはしんどいので、「歴史やら制度やらで決まる」という論者が出てきて、「いや、クラスターぐらいなら記述できる」という論者がそれに続く。

本稿は、ジャンルに関する探求およびクラスター説というアプローチへの反省である。

「デッドパンとはなにか」

まずは個人的な思い出をひとつ。

数年前『ニューQ』という雑誌に「〈デッドパン〉を工学する」という文章を書いた。写真芸術の批評において見られる「deadpan」という概念を整備する、という目的で書いたものだ。(「デッドパン」も、ある意味では写真ジャンルといっていいだろう。)

私が挙げたデッドパンの特徴には、①「中立的かつ反復的な仕方で対象を提示」すること、②「大判のカメラを用いた細部の描写」をしていること、③「代替可能」で「一過性の風景」を被写体とすること、あるいは④「抽象的とも言うべき匿名性」において人物を撮ること、が含まれている。実際、これらの要素はかなり抽象的で、現代のグルスキーとかルフとかソスとか実際にdeadpanだと評される作家だけでなく、新即物主義、ニュートポグラフィックス、f/64、ニューカラーといった、いくつかの写真運動をまとめて包括するものとして意図されていた。

文章にも「デッドパンにとって標準的な要素というだけで、必要条件でも十分条件」でもない、と書いたのだが、正直、当の文章を書いているときに自分がなにを書いているのかいまいちよく分かっていなかった。

実際、この煮えきらなさは、刊行イベントで一緒に登壇された遠藤さん(@iepmihs)にも指摘されていて、「概念工学としては、選言的条件でもよいので、もっと概念定義っぽくするべきでは〔大意〕」とのコメントをいただいた。現場ではあまり腑に落ちなかったが、なるほど自分の書いたそれはあまり分析美学という感じの文章ではなかったし、概念工学としても形式としては条件的定義の形をとったプロトタイプのほうがよいのだろう、ということで後に納得した。

が、それは「分析美学として」「概念工学として」という留保付きでの話だ。ここでは、一般的な知的探求として目指すべきなのはどういう文章だろうかと考えている。

「デッドパンにとって標準的な要素」、ということで意図していたのはもちろんWalton (1970)の標準的/可変的/反標準的特徴であり、これをクラスター説と結びつける議論はFriend (2012)がやっているし、テローネもこれに従っている。すなわち、任意のある芸術ジャンルXには、「Xへの所属を促す標準的特徴」「Xへの所属に関わらない可変的特徴」「Xへの所属を妨げる反標準的特徴」があり、これらが上述の意味でのクラスターを成している。とはいえ、当時の私がデッドパンに関して意図していたのは、クラスター説ですらなく(単純によく知らなかった)、さらにゆるい特徴づけだ。現在に至るまでそう思っているように、社会的な認識としてあるものが「Xかどうか」はつまるところなぁなぁであり、一定以上のテキトウさにおいて決まる側面があり、また、そのあるもの(ここではあるジャンル)が社会的な存在者である限りで、存在論的にも「{任意のある芸術ジャンル}かどうか」はつまるところなぁなぁとしか言えない、という直観がある。そうなってくると、「デッドパンとはなにか」みたいな問いに対しては、「しばしば特徴①②③④を持つもの。何個以上持てばいいかとか、何個以下だとダメかは知らんけど」という煮え切らない形式を取らざるを得ない。

クラスター説はもう少し厳密だが、同じような煮えきらなさを抱えたアプローチだろう。こういう慎重な議論のうれしさについては、ちょっと気がかりなことがある。

それは誰のための慎重さなのか

例えば「SFとはなにか」を気にするときに、読み手はなにを知りたいのか。第一に言えば、それはやはり「SF作品とは特徴Fを持った作品であり、特徴Fを持たない作品はSFではない」みたいな明瞭な断言ではないかと思ってしまう。とりわけ、それが高名なSF作家による断言であれば、権威も合わさって、SFに関して理解できた感が深まる。そういった"定義"は繰り返し参照され、繰り返し分析美学者をモヤモヤさせることになるだろう。こんなのは少なからず低俗な知的探求だと言いたくなるが、一般的に言えば民間的な知的探求とはだいたいこれぐらい粗挽きだというのも(部分的には)事実だろう(SNSでは断言口調のほうがバズるという話)。また、良かれ悪しかれ、そういった明瞭な断言に"触発"されたりすることで、実作や批評が活性化するという面においては、アートワールドをより良くしているとも言える。「こういう反例があるので十分条件じゃないし、ああいう反例があるので必要条件でもない……」などと言い出すのは、一部の"空気が読めない"人たちだけなのではないか。そこに私も含まれているのではないか。

これに対し、別のディシプリンにおいてアカデミックな知的探求のやり方に親しんでいる書き手・読み手であれば、そういった無責任な断言は「ジャンルの歴史性を無視している」と応答するだろう。Suvinに対するEvnineのコメントもこの形式をとっている。実際、駒場の表象文化論にいると、「この著者は歴史的多様性を無視している」というのがあまりにも定番なコメントなので、講義中とくに言いたいことが思いつかないときにはとりあえずこれを言っておけばいいぐらいだ。ともかく、こういった視点(および歴史的調査のためのリソース)を持つ書き手であればSFの成立史について年表的に記述していくだろうし、その著作は同様の視点を持った読み手を喜ばせることだろう。もちろん、これはもはや「美学」ではなく「芸術史」なのだが、ともかく"勉強になる"類の本が得られるはずだ。しかし、これはすでにある程度アカデミックな知的訓練を受けた人同士のやり取りになっている。


さて、クラスター説は、より慎重になされた(断言ならぬ)提言だと言えるが、この慎重さは実際のところ、第一のやり方を中途半端にし、第二のやり方からの批判に対してはあまり予防になっていないという不幸を抱えていると思う。

「芸術の定義」では、Gautのクラスター説に対して、Stecker (2000)Davies (2004)が「それって結局、条件的定義なのでは?」と応じている。まず、「特徴F1, F2, F3……」はそれぞれ個別に必要となる条件ではないが、あわせて選言的な必要条件を成している。すなわち、「特徴F1, F2, F3……」のいくつかを満たしていることは、あるジャンルに属するために、依然として必要であるわけだ。また、特徴記述が十分である限りで、全部(ないし大部分を)満たしていることは、そのジャンルに属するための十分条件にもなっている。ゆえに、「特徴づける」ことは実質的に「(慎重かつテクニカルに)定義する」ことだとも言える。Gaut (2005)はこれに対してクラスター説を正当化しており、テローネもGautの肩を持つようだが、どこまでうまく行っているのかは私には評価できない。

つまるところクラスターによる特徴づけがテクニカルな条件的定義なのであれば、テクニカルな分だけ、より明瞭な断言が持つ強度が失われる。権威的な断言を好む読者は、「SFとは、典型的にはこういうものだが、こうでないかもしれない……」みたいな煮えきらなさを好まないだろう。一方で、クラスター説としては歴史的多様性をカバーできるようにケアったはずだが、この慎重さは同じやり方をするサークルの外部ではあまり評価されないのではないかと思われる。歴史的アプローチであれば、定義らしき形式があるだけでも、「歴史的多様性を無視している」という批判を繰り返すだろう。それに、ほんとうに歴史を重視するならば、あいまい定義した上で「歴史的に変化するものだ」と放り投げるのではなく、実際にどういう歴史なのか調べるべきだろう(芸術史研究にシフトすべきだろう)、とも言われかねない。


話をまとめるとこうだ。クラスター説のような慎重さは、つまるところ誰にとってなにがうれしいのか。これは、テクニカルな概念定義(分析にせよ工学にせよ)を試みる分析美学一般についても言えることだと思う。私にはいまのところ明確な答えがない。

応答には大きく三つの候補があると思う。

(1)書き手自身にとってうれしい。外延的により正確なボーダーラインが得られることは、私にとって気分がいい。あるいは、書き手と同じ性分の人、とくに同じサークル内部の人にとってうれしい。私たちにとって気分がいい。

(2)誰もそんなにうれしくないので、いっそ権威的に断言してしまうか、もっと"勉強になる"類の芸術史研究にシフトし、別の仕方で「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」式の問いを扱うべき。

(3)そもそも、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」式の問いをやめるべき。外延的正確さはそこそこでいいので、もっと気の利いた問いを扱うべき。(ex.「ホラーとはなにか」はそこそこに、「フィクションなのになぜ怖いのか」を考える。)

どれもある程度理にかなった態度だと思うし、どの態度を取ろうが外野からとやかく言われる筋合いがないのはそりゃそうだ。ただ、クラスター説をはじめとするテクニカルな定義をあえて試みることのうれしさは、一般的に言えばかなり限定的だ、という点は自覚すべきかもしれない。

この辺は、SFの定義に関心のあるナンバさんの意見も聞いてみたい。(テローネ論文も読まれたようなので。)

近年、ナンバさんの書きものにある種の大胆さが出てきたというか、議論の厳密さを気にされなくなったというか、そういう意味でもう分析美学ではない独自のスタイルにコミットされているような印象を受けている。例えば、「こういう反例があるので、この定義はこういう修正が必要だ」みたいな、ブンセキブンセキしたムーブをほとんどとられなくなったように思う(以前からかもしれないが)。あるいは、(2)のいちバリエーションとして、実作者にインタビューしてらっしゃるものだと認識している。前述の通り、クラスター説の不幸に対して、選択される態度のひとつとしては理にかなったものだろう。(それを分析美学と呼び続けることはいくぶんミスリードだと思うが。)


私もジャンルものはかなり好きで、ホラーとはなにか、サスペンスとはなにか、マジックリアリズムとはなにかが気になるタイプなのだが、どういう仕方でジャンルにアプローチすべきか、入り口のところでしばらく考え込んでいる。


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