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供養

人に会って話すことばかりで時が過ぎてゆく。身に余る光栄と感じているのみで、いつでも気づかぬ間に別れの時が訪れる。「長生きしてくれねぇかな」と衝動的な思いを抱く。また同じように喜びが得られることに心底から期待しているのです。そんな卑しい心根が嫌いになれないとはいえ、人に長生きを望むなどという痴れ者にだけはなりたくない。

月並みでつまらない話ですが、人が死ぬのは唐突だ。去年は二人の友人が亡くなった。
何の兆候すらも感じられなかったことには可笑しくなってしまうほどでした。はじめの唐突な病死、何を口実にしてか、もう忘れてしまったが三日後に会う予定だった。
それと、次は自死だったようだ。唐突ですらありませんでした。そうしてさえもらえなかった。「つまらねぇLINEをめずらしい」と、半年も前にそう思った記憶がよみがえる、ありきたりな画面を眺めたものです。
あたりまえですが、まだ既読はつかないようです。



コノサカヅキヲ受ケテクレ

これは未だに儀式めいた思考の過程です。
「なにを馬鹿げた死に方をしやがって」と、不遜な思いに始まってしまう。それを避けることすらまだできない。世界との新たな関わり、この世にその作法を見出すこと、無残にもそれを強いられることとなった者には儀式が必要だ。

感情に酔った人間の戯言かもしれません。それでも、「この感情を抑えこむことで儀式が円滑になるわけがない。」そうであって欲しい。これはたしかに、私的な、あまりに幼稚な願望なのかもしれない。しかし、そうでなければ、あまりにも酷というべきだ。残酷が過ぎれば、悲愴が悲壮を呼ぶだろう。死に接してその感情を抑えきってしまうことが、そんな理性の強行が、善い儀式であってもらっては困るのだ。その先に待つ結果は、なんであれ彼らの人生を因果の流れで汚してしまう。



ドウゾナミナミツガシテオクレ

すでにパッケージングされてしまった生は、「死」と呼ばれるようになり、その包装紙の見た目のみで判断されてゆく。結果としての「死」がどれだけ見栄えするものか、我々はいつもそれだけを評するのだ。

死を評価しようなどという越権行為を一体いつから、誰が許してしまったのでしょう。死に評するべき価値などあるものか。死に善い悪いのあるわけがあるか。既に覆われることとなった人生を、結果論によって評価することが、許されてたまりますか。

今も昔もこれからも、あったのはただ人生だ。それを善とすべきか悪とすべきか。今問われているのはこれだ。価値のあったものかそうでないかは、人生自体で評価されるべきです。死に相対するとき、「彼らの人生が善きもので無かっただろう」などと、私はそもそも考えることが出来ない。彼らの人生が善きものであったことに、疑いの余地があってはならない。
どんな人生であれ、それらを善いもので在らしめ続けることは、関わりの中に生きるべき人間として当然の責任だ。既に包装されることとなった人生を、我々はいかにして善きものとして在らしめ続けることができるのだろうか。
何を捧げて供養とするべきか、そんな簡単なことすら人間は忘れてしまえる。



ハナニアラシノタトヘモアルゾ

概ねこんなところでしょうか。儀式が終わりました。仏式ではないので御拝はいらない。始めは神式だったのでちゃんと玉串を回してきたし、自殺をした人間への式などこれくらいのものです。あれはやったとしても葬儀に人を呼ばないので。遺影すら見ていない。

さて、人との別れは何時でも死別と同じ思いがする。いま仮に私の位置でパッケージングされた彼らの人生を、善きものにすべくして供養をしなければとおもう。二度と会えないかもしれないし、また会うかもしれないという意味ではやはり同じに見える。

他人の人生が、どの時点で包装されればよいな、などと、考えてしまうのは不届き極まりないことだ。
「長く生きた時点だと、立派な包装紙に包まれるはずだ」と、「短い時点の包装紙はゴミのようなものだ」と、名乗ることさえしない、この無礼な信仰が、死に向き合うことに恐れをなして、あまつさえ人生と向き合う事さえできなくしてしまったのか。



サヨナラダケガ人生ダ

「マタオマエニ会イテェナ」

一周忌終

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