重い、移ろい

 日付も回り、人通りが少なくなった道を一人の男が歩いてきた。ふらふらと歩くその姿からも相当に酔っていることは見てとれた。
「ふええい、飲んだ飲んだ、と。」
 男は誰に話しかけるでもなく、大きな独り言でそう言った。
「何とか終電には間に合ったけど、もう誰も歩いてねえじゃねえか。」
 カバンを振り回しながら帰るその姿は、わんぱく小学生の下校姿にも見えた。
「ん……あれなんだ。」
 決して明るい道ではなかったが、これから歩いていこうとする先の方、その道の先の方に何やら黒い物体が置いてあるのが見えた。
 元来小心者だった男は、普段なら決して近寄ったりっしなかっただろうが、酔って気が大きくなっていたのだろう。男はずかずかと歩いていった。
「なんだ、アタッシュケースか。あ?いやなんでアタッシュケースなんかがこんな道端に置いてあんだよ!」
 男は怒り口調でそう言った。
「よし仕方ない、これを交番に届けて進ぜよう。」
 気分がよかった男は、なぜか偉そうな口調でそう言うとアタッシュケースを持ち上げようとした。
「あれ、おかしいな。」
 片手で運べるほどの大きさにもかかわらず、なぜか持ち上がらない。
「酔ってるからか?」
 男はもう一度挑戦してみたが、全く歯が立たない。男自身、決して力持ちな部類ではなかったが、曲がりなりにも成人男性。多少のものなら持ち上げられる。
 男はそのアタッシュケースを持とうと何度も挑戦したが、ついぞ持ち上げることはできなかった。
「何だよこれ!全然持ち上がらねえじゃねえか!」
 男はそう言うと、思いっきりそのアタッシュケースを蹴り上げた。
「お兄さん、ちょっとよろしいですか?」
 突然の声にびっくりする男。振り返るとそこには、警官が。
「え、あ……どうも。」
 男は思わずその警官に敬礼をした。
「あ、ご丁寧にどうも。」
警官も敬礼を返す。
「ちょっとごめんなさいね。お兄さん、こんなところで何されてたんですか?」

 何もやましいことをしていなくても、こんなことを警官に聞かれたら焦ってしまうものだ。まして、落ちているアタッシュケースを蹴っているところを見られたのならなおさらである。
「いや、そのあの、このアタッシュケースが落ちてまして……」
警官は静かにうなずく。
「だからその、交番に届けようかなと思って。」
「ああそうだったの。それはどうも。」
警官はにこっと微笑んだ。
「でも、見間違いだったらごめんなさいね。なんか何度も触って、しまいには蹴ったりしてませんでした?」
「いや、それはあの……」
 変に取り繕っても意味がないと思った男は正直に話すことにした。
「実はその、酔ってるからなんですかね。全然持ち上がらなくて。」
「全然持ち上がらない?」
 警官は不思議そうな表情でそう繰り返した。
「はい。いや本当ですって。」
「あの、お兄さんお名前は?」
「吉川です。あの……あ、免許証だってね、ほら。」
 吉川はそう言うと財布の中から免許証を取り出して警官に見せた。
「ああ、はいはい。一応確認なんですけど、このアタッシュケース、お兄さんのじゃないよね?」
「もちろん。違いますよ。」
 吉川は心外だといった表情でそう答えた。
「そうだ、お兄さん。警察の人でしょ?このアタッシュケース持って行ってくれません?」
「まあ、お兄さんのじゃないって言うなら、ここに置いておくわけにはいかないですからね。」
「なんでそんなに重いんですかね。」
「分かりませんよ。」
「そうだ、開けてみたらどうですか。」
「いや、こんなダイヤル錠開けようとしたら朝までかかっちゃいますよ。」
「そっか。」
 吉川は落胆した表情を浮かべた。
「まあとりあえず、できることやってみましょう。」
「お願いします。僕ここで見てますんで。」
「いや別に見てなくてもいいんだけどね。」
 そう言うと警官は例のアタッシュケースに近づき、持ち上げようとした。
「あれ?」
「どうしました?」
 警官はもう一度挑戦をする。
「え……持ち上がらない。」
「え、やっぱりですか。」
「うん。」
 二人の間に沈黙が流れる。
「え、怖。」
「怖いね。そんな重いものが入るような大きさじゃないんだけど。」
「え、え、ええ?うわうわうわ、急に酔い覚めてきた。」
「と、とりあえず。危険物の可能性もあるから落ち着いて。」
 さすが、プロである。
「私はこの先の交番で勤務してる前野って言います。」
「ああ、どうも。」
「吉川さんでしたっけ。とりあえず、ここから離れててください。」
「いや無理ですよ。」
 まさかの返答にびっくりする前野。
「いや、無理って。何でですか?」
「あんなに酔ってたのが吹っ飛ぶくらいに怖いんですよ。こんな気持ち悪いの抱えたまま帰れます?」
「いやまあそれはそうかもしれませんけど。」
 前野自身、その気持ちが分からないわけではなった。
「わかりました。そこにいるのは吉川さんの勝手ですけど、ここから先の安全は保証できませんからね。」
 前野はそういう条件で渋々納得することにした。
「はい。」
「とりあえず応援を呼ぶか。いやでもその音を聞きつけて野次馬がたまったりしたら大変だからな。まずは慎重に……」
 吉川がそんな前野の様子を一歩引いたところで見ていると、男が近づいてきた。
「あの、どうかしたんですか?」
「わあ、びっくりした。」
「ああ、すみません。驚かせるつもりはなかったんですけど。」
「いえいえ。」
「どうかされたんですか?」
 吉川という男は、そんな風に尋ねられると隠しておけないたちだった。
「いや実は、あそこにアタッシュケースがあるじゃないですか?」
「アタッシュケース?ああ、はい。」
 男が目を凝らすと、確かに道端にアタッシュケースがあるのが分かった。
「あのアタッシュケースが、重くて持ち上がらないんですよ。」
「は?」
「いや、そうなりますよね。あなたの気持ちももっともです。」
 吉川はなるべく男に寄り添おうとした。
「で、持ち上がらないってことは、もしかしたら危険物が入ってるんじゃないかなって。」
「ああ、なるほど。」
男はなんとか納得したようだった。
「でもそしたら、僕がやりましょうか?」
 男はそんな提案をしてきた。
「え?いやごめんなさい。僕が言えた義理じゃないですけど、多分お兄さんにも持ち上げられないと思いますよ。」
 吉川はその男の中肉中背な様子を見てそう言った。
「ああ、持ち上げるんじゃなくて。」
「持ち上げるんじゃない?」
「あの僕、重さを移動できるんですよ。」
「……はい?」
「だから、重さを移動できるんです。」
「重さを移動?……前野さん、そのアタッシュケースより変な人がいます!」
「ちょっとやめてくださいよ。」
 男は慌てて吉川を制止した。
「どうしたんですか、今はこっちで手一杯だって言うのに。大体ね、吉川さん、今はもう深夜なんですよ?そんな大声で……」
 こちらを振り向いた前野が止まる。
「前野さん?」
「あれ……そちらのお兄さん、どっかでお会いしたことありませんでしたっけ?」
「あ、お知り合いですか?」
「いや、初対面だと思いますけど。」
「ああ、そうでしたか。すみません。で、何ですか?」
「いや実はこの人がね、自分は重さを移動できるとか、意味わからないことを言ってるんですよ。」
「重さを移動できる……何すかそれ。」
「ね、絶対変でしょ。」
「うん……怪しいなあ。」
「いや、本当なんですって。」
 男は必死で弁解した。
「僕、伊藤って言います。あの、本当にできるんで、試させてください。」
 二人は顔を見合わせた。
「じゃあ試しにあなたがお持ちのバッグ。そのバッグから重さを移動させて見せます。」
 伊藤は吉川が持っていたバッグを指さしてそういった。
「ええ?」
 戸惑う吉川。
「吉川さん、やってみましょう。」
「ええ、マジっすか。」
「吉川さん、このアタッシュケースの中身を知るためなら、命だってなげうつ覚悟だって言ったじゃないですか。」
「いくら酔っぱらってても、そこまでは言ってないです。」
「大丈夫ですから。もしあなたになにかあったら、この男を絶対捕まえます。」
「遅いんだよ、それじゃあ。」
「吉川さん、今は藁にもすがる思いなんですよ。」
「分かりましたよ。やればいいんでしょ、やれば。」
 吉川は前野の謎の説得力に負け、渋々バッグを差し出すことにした。
「それじゃあ、そのバッグを一度地面に置いてもらっていいですか。」
「は、はい。」
吉川は恐る恐るバッグを地面に置く。
「では今からこのバッグの重さを……あ、その前に警官さん。このバッグ、本当に重いか試してみてください。」
「え、私が?」
「もしかしたら僕らがグルかもしれないじゃないですか。」
「なんで俺があんたみたいな人と仲間なんだよ。」
吉川は声を荒げた。
「一応ですから。」
「じゃあ、はい。」
そう言って前野は吉川のバッグを持ち上げてみた。とても重いわけではないが、それなりの重みは感じられた。
「じゃあ、今からこのバッグの重さを取り除きますね。そうだな、あなたの右足にバッグの重さを移動させます。」
「え、俺の?」
 吉川は自分の右足を抑えた。
「分かりました、お願いします。」
 前野が即答する。
「もうなんでもいいですよ。」
 吉川も最早投げやりにそう答えた。
「じゃあ、行きますね。」
伊藤はバッグに触り、何やら念じると、そのあとで吉川の右足に触れた。
「はい、できました。」
「え、本当ですか?」
「はい。是非持ってみてください。」
「じゃあ……」
 そういってバッグを持ち上げる吉川。
「え、軽!え、重さが感じられない!」
「本当ですか?」
 すかさず前野もバッグを持ってみる。
「本当だ……あの、右足はどうですか?」
「うーん、確かに重い気がします。」
「これが僕の力です。」
 伊藤はどや顔でそう言った。
「おおー。」
「うーん。なんか胡散臭い気がしなくもないけど、今は信じるしかないか。」
 吉川も渋々納得した。
「じゃあ早速、あのアタッシュケースにもやってもらっていいですか?」
「分かりました。あの、試しに持ち上げてみてもいいですか。」
「もちろん。どうぞ。」
 伊藤はアタッシュケースに近づき持ち上げようとしたが、決して筋肉質には見えない伊藤にも当然持ち上げることなどできなかった。
「これは、結構行っちゃった方がいいかもしれないですね。」
「というと?」
「数キロずつ移動させるんじゃなくて、もう一気に移動させちゃいましょう。」
「なるほど。あの、移動先は。」
「うーん……」
 伊藤は辺りを見回したが、ちょうどいいものは見つからない。
「分かりました。俺のバッグに移動させてください。」
「いいんですか?」
「一旦ですからね。」
「ありがとうございます。」
「あ、その前にバッグの重さは戻してくださいね。」

 そして運命の時がやってきた。
「では、いきます。」
「「はい。」」
伊藤は先ほどと同じような作業を何度か繰り返した。
「ふう、これで結構移動できたと思います。」
なかなかの重労働なのだろう、伊藤は大きく呼吸をしながらそう言った。
「了解です。」
 前野がアタッシュケースに近づいて持ち上げようとする。しかし、やはり持ち上がらない。
「ああ、無理だ。」
「ビクともしませんか。」
「はい。」
 落胆する二人を見て、伊藤が口を開く。
「ということは、もしや……」
「なんか分かったんですか?」
「教えてください。」
「おそらくこのアタッシュケースには、人の思いが詰まっているんです。」
 あまりにも名発言に返事に困ってしまう二人。
「いや、今はそういう冗談はいらないですから。」
「冗談なんかじゃないんです。」
「どういう意味ですか?」
 前野が尋ねる。
「本来、人というのは、生まれた頃から自然と思いを移すことができるんです。」
「というと?」
「愛情を注ぐとか憎悪するとか、そういった類のものです。」
「ああ、そっちの思いですね。」
「そんな原理を元に、修行を積み重ねて手に入れたのが、先程見せた僕の力です。」
「いやいや、でもその思いと、物が重いとかの重いは、違うじゃないですか。」
 吉川は即座にツッコミを入れる。
「それがそうでもないんです。実は人の思いには、本当に重さがあるんです。」
「重さ?」
「はい。人の思いが詰まれば詰まるほど、そのものは重くなっていく。」
「例えば?」
「最近よくあるのは、メンヘラ彼女からの重い愛。」
 なんとなくわからなくもない話だ。
「もっとシンプルに言えば、呪いの藁人形とか不幸の手紙とか。こういうものは思いが詰まることで、実際に物理的にも重くなっていくんです。」
「いや、信じられないなあ。」
 吉川は怪訝そうな表情を浮かべる。
「特に愛情、憎悪、好奇心。こういった果てなき思いは、より重くなると言われているんです。」
「果てなき思いねえ。」
「じゃあこのアタッシュケースにも、その思いってのが詰まってるって言うんですか。」
「はい。このアタッシュケースにも人の思い、おそらく好奇心の類ですね。その思いが積み重なり、この重さとなったんです。」
「じゃあこの中身は?」
「中身自体は、もしかしたら大したものじゃないかもしれません。でもほら、ダイアルを必死で開けようとした跡が見えるでしょう。」
 そう言われてみてみると、ダイヤルには何度も試したであろう跡が見てとれた。
「ああ、確かに。」
「おそらく初めの頃は、このダイアルを開けようとちょっと試してみた。そんなことが重なるうちに、好奇心という思いがどんどんどんどん積み重なっていって……」
「なるほど。」
 前野は深く頷いた。
「前野さん、今ので納得したんですか?」
「いや完璧には納得してませんけど、でも他に何かありますか?このサイズで、こんなに重いもの。」
「まあそれは、思いつかないですけど……」
「わかりました。じゃあこうしましょう。」
 伊藤は二人にある提案をした。
「今回は特別に、私があなたたちのこのアタッシュケースに関する好奇心、それを全部ここに移します。」
「え?」
「そうしたら中身こそ見れませんが、このアタッシュケースのことは忘れられますし、気になることはありません。」
「なるほど。」
「いやでもなんかなあ。」
「じゃあ、このまま気持ち悪いまま帰れますか?」
「それもちょっと……」
「吉川さん、今回はそうしてもらいましょう。僕もこのままじゃ気持ち悪くてパトロールに戻れませんし。」
「分かりました。じゃあ、お願いします。」
「はい。では二人とも近くに寄っていただいて。では行きますね。」

 男が目を開けるとそこは朱里の暗い道路。目の前にはなぜか警官の姿。
「え、なんでこんなところに。」
 時計の確認すると深夜三時、もう駅についてから相当な時間が経っている。
「ううん……」
 どうやら警官も目を覚ましたようだった。
「あれ、パトロールをしてたはずなのになんでこんなところに……」
 警官も目の前にいる男の存在に気付く。
「こんなところで何してるんですか。」
「いやあの、僕も今目が覚めたばっかりで……お疲れ様です。」
 そう言って男は敬礼をした。
「ああ、どうも。」
 警官も丁寧に敬礼を返す。
「お兄さん、無事に帰れそうですか?」
「あ、大丈夫であります。」
「それならよかった。お酒はほどほどにしてくださいね。」
「はい。あ、お仕事頑張ってください。」
「ご丁寧にどうも。」
 そう言うと警官は近くに倒れていた自転車を起こして走り去っていった。
「俺も、帰るかあ。」
 男もゆっくりと家路につくのだった。

 それを物陰から除く人物が一人。もちろん、先程伊藤と名乗ったあの男だ。
「あの警官、なかなか鋭かったな。一瞬、俺を覚えていた時は焦ったが、まあなんとかなったみたいだ。」
 伊藤と名乗った男はさっきまで決して持ち上がることのなかったあのアタッシュケースをかがると持ち上げていた。
「人間の思いってのは本当に面白くて、何より美味しい。もっと貯めてやるぞ。」
 そういうと、伊藤と名乗った男はアタッシュケースを長い舌で舐めるのだった。

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