裏切り

我々の使う言葉の中には、良くも悪くも取れるものがしばしばある。よくあるのが、カタカナ表記による印象操作だ。
例えば、レトロという言葉。この言葉を聞いてどう思うだろうか?古き良き、セピア色の思い出が浮かぶかもしれないが、古いということに過ぎない。ネット用語っぽく言うのであれば、懐古厨である。
リーズナブルという言葉だってそうである。本来は、提供されるサービスに対して適正な価格、という意味だそうだが、普段誤用されているのは、安いという意味である。リーズナブルとはよく言ったもので、要は安いということなのだ。

カタカナ表記でなくても良くも悪くも取れる言葉がある。それが慣れるという言葉だ。
慣れるという言葉を聞いて、悪い意味が思い浮かばないという人もいると思う。でもこんなことも聞いたことがないだろうか。

慣れた時こそ、初心に帰れ

慣れとは間違いなく、その人の努力の結晶であり、成長の証でもある。しかし、慣れたからこそ吸い込まれてしまう落とし穴もあるのだ。

いつもの喫茶店は安心する。慣れ親しんだ店員に、慣れしたんだメニュー。慣れ親しんだ香りに、慣れ親しんだ音。
しかし、常に慣れ親しんだ環境に身を投じていてはそれ以上の成長はない。いつもとは違う場所に赴くことで、得られるものがあるのだ。

ここは何もかもが少し、いや相当に割高な、高級感溢れる街。そんな街の喫茶店に入ることで見えてくる風景もきっとあるのだ。
どうにも慣れない店ゆえに、なんだかソワソワしてしまう。貧乏人根性丸出しである。
近くに腰かけている真っ赤な服を全身に纏ったマダムと呼ぶにふさわしい女性の手元には、ギラギラと大きな宝石が輝きを放っているのが見える。これがこの街の普通なのだろう。

そんなことを考えながら珈琲を啜っていると、カランカランという音が。この音すら、普段の喫茶店よりオシャレに聞こえるのは既に毒されてしまっているからであろう。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いえいえ、全然大丈夫です。」
「それならよかったです。」
高森はどっと腰を下ろした。
「でも珍しいですね、いつものところじゃないなんて。」
「たまにはいいかな、と。」
「なるほど。」
高森は手を高くあげると、物静かな店員に珈琲を頼んだ。
「この辺りまで足を伸ばされることもあるんですか?」
「いえ、正直ほとんど無くて。」
「ああ、そうなんですね。でも突然どうして?何かあったんですか?」
「いやそういうわけじゃないですよ。なんて言うんでしょう、環境の変化が新しい発想を生むこともあるかな、と。」
「はあ、なるほど。さすが先生です。」
高森さんは、どうです?
「どうです?、と言うと。」
「ここら辺には良く来られるんですか?」
「ああ、僕はそうですね、作家さんによって場所はまちまちなんで。ここら辺に来ることも多いですし、なんならこのお店で打ち合わせをしたこともありますよ。」
なんということだ!目の前にいるこの男も、このような空間で緊張しているに違いないと思っていた雨相にとって、それは予想だにしない答えだった。
「先生、どうかされましたか?」
「いえ、なんでも。」
そうは取り繕ってみたが、心臓の鼓動は高まったままだ。
「あ、そうだ。この前先生から頂いた作品案、あれ良かったです。」
高森は満面の笑みでそう切り出した。
「ああ、そうですか。よかった。」
「いやあ、全編通して裏切り者の目線で描かれているっていうのがとてもたまりませんでした。しかもその裏切りを読者には初めから隠してない、っていうのもいいですよね。」
「ありがとうございます。」
しかし自分からすれば、先程のこの男の回答こそ、裏切りなのだ。いや待て。裏切りだろうか?この男は真面目に、熱心に仕事をしている。ただそれだけなのだ。ああ、なんだか頭が混雑する日だ。
「先生、先生?」
高森の呼び掛けでふと我に返る雨相。
「ああ、なんでしたっけ?」
「大丈夫ですか?なんか変ですよ?」
「いやあ、どうにも慣れない場所なもので。」
「先生もそういう風になるんですね。」
高森は少し笑った。
「やっぱり慣れたところが一番です。」
とどのつまり、そこに戻るのである。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,651件