ひとことで短く説明できないような仕事がいちばんおいしいと思っている
最近、仕事について聞かれる機会が増えてきた。
人に会う機会が増えるにしたがって、「どんな仕事をしているの?」と聞かれて答えに困ってしまう回数も同じだけ増えた。
僕は僕のやっている仕事をひとことで説明できない。
既存の概念で自分の仕事を説明する言葉がないから。
だからいつも困ってしまう。昨日も困った。
「なおと君は今でもメンタルコーチをやっているの?」
家に遊びにきたのは、奥さんが昔お世話になった職場の先輩たち。
そういえば、メンタルコーチって説明してた時期もあったっけ。
「はい、まあ大体そんな感じです」
とあいまいに答える。
「仕事は家でできるの?」
「はい、ずっと家にいますね」
「スポーツのメンタルをコーチするの?」
「いやあそういうわけじゃないんですけど」
質問に答えれば答えるほどあいまいな話になっていく。
「個人でそんなことできるの?」
「はあ、いちおうできてますね…僕も不思議ですけど」
「お客さんはどうやって見つけるの?」
「ブログとかですかね、明日は北海道の人が来るのでドライブしますよ」
「へぇ…」
メンタルコーチ、家でできる、全国から人が来る、ドライブする、この条件を満たす仕事はたぶん、既存の概念の中には存在しないんじゃなかろうか。
まあそれも当然っちゃ当然。僕が1から作ったのだから。
だからいつも前提を共有していない他人に仕事の話を振られると困ってしまう。
多くの人にとって仕事とは「選ぶもの」ではあっても「創るもの」ではない
「仕事は何をしているの?」という質問は「仕事は既存のものの中から選ぶもの」という前提をはらむので、返す言葉がない。
奥さんは「妊娠する前から無職で産休ももらっていないんです」と続ける。
「食事は全部旦那の担当です、私は掃除と洗濯だけですね」
もうお手上げだ。どうしようもない。
自分の仕事を他人に短く説明できないというこの状況が、僕はとてもおいしいなあと感じる。
説明できない仕事=おいしいの理由
他人に短く説明できるということは、既存の概念で説明がつくということ。
例えば僕が「ライフコーチをやっています」と言うとして、それが「なるほどね」と受け入れられる世界だったとする。
そうなってくると、その世界は「ライフコーチ」という仕事が当たり前に存在するということになる。
つまり、ライフコーチは他にもたくさんいて、ライフコーチとして生きていくにはそれなりの競争に勝たないといけない状況であると。
「ライフコーチはこうあるべき」という暗黙のルールにもなんとなく従わなくてはいけないだろう。
そうなってくるともうライフコーチという仕事はもう美味しくない。
医者や弁護士と一緒だ。競争に勝ち続ける者だけが生き残れる世界になってくる。
今僕がやっていることは、他人に短く説明できない。
説明できないから、いいんだよ
今この社会に「仕事」として認知されていないことをしているから。
その辺にお客さんがいない。概念がそもそもないので、いくら探しても僕のお客さんは見つからない。
0から作るのだ。
大変だけど、とてもおいしい。
先日僕はブログを通じて出会った人と寿司を食べに行った。
依頼なので報酬をもらって、市場でうまい寿司を食べた。
うちの家族は僕が寿司を食べてもらったお金で生活している。
寿司も美味しかったし、この状況もおいしい。
説明できない。
既存の概念では寿司は「お金を払って食べにいくもの」であって、「お金をもらいながら食べるもの」ではないからだ。
なぜ?と言われてもひとことでは説明できない。
理解してもらう必要もない。
理解してもらえないから、おいしい。
説明できない仕事の創りかた
こんな仕事がしたかった3年前の僕にひとことだけ伝えて終わる。
他人に短く説明できるような仕事をしてちゃダメだよ。
もう一言だけ。
今君が持っているものをもう一度整理して、並べて、分析して、努力量の割に成果が出やすい行動を見つけて、それだけをやり続けてね。
そうすると自然と一番強いところが仕事になるよ。才能は発揮していると気分がいいからね。気分良く仕事をすると儲かるよ。
今日は昼からまた車で駅に迎えに行きます。
ドライブをして一緒に遊ぶという、短く説明できない仕事をしてきます。以上です。
いただいたサポートはミックスナッツになって僕のお腹の脂肪として蓄えられます。