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ヤマアラシのジレンマをたくさんやることで「才能」を見つけていくんだ

ヤマアラシのジレンマという言葉は言い得て妙だと思っている。人には人の心地のいい距離があって、近づきすぎると痛いし離れすぎるとお互いを感じられない。心地よいと感じる距離感は人それぞれで違っていて、ここが人間関係の難しいところであり面白いところでもあると感じている。


僕はインターネットの向こう側にいる人と「はじめまして」をすることを生業にして生きているので、どうしても人が持つ固有の距離感について敏感になる。「人には人の乳酸菌」よろしく、「人には人の距離感」があるのだ。遠くの人と繋がる時は神経を使う。この人はどこまで近づいていいんだろうか、と。


この「心地のいい距離感」がピタッと合う人がいる。そういう人は「相性がいい人」だ。相性のよさにもタイミングによって強弱があるから、「相性がいい人と相性がいいタイミング」で出会えると、恐ろしいほどの心地よさを感じる。


僕もそんな関係を何度か感じたことがある。初めて会ったはずなのにまるで幼い頃からの友人と話しているような。あの快感ったらない。合わせているわけでも合わせられているわけでもないのに、違う楽器で同じ曲を奏でているような気持ちになる。そういうときの会話は恐ろしく早く時間が過ぎてしまう。


他人との距離感を探ることに慣れてくると、「この人はもっと近づいていいな」「この人とはもう少し距離を取ろう」ということがわかるようになってくる。けれどこれはあくまで慣れによる技術の向上であって、「ありのまま話したときの波長が合う」に勝てるものではない。


僕は九州(福岡)の生まれなので根本的な性質として人との距離が近い。起業をして4年ほど東京に住んだことがあるけれど、その時に実感した。東京の人間関係と福岡の人間関係は明らかに違う。僕は人との距離が近いんだ。そう感じたら一気に視界がひらけた気がした。傾向を知っていれば対策が打てるから。


大都会は家賃が高いから生活コストが田舎の比じゃない。何をするにもお金がかかる。だから仕事に対しての向き合い方が田舎の人間と根本的に違う。これは個々人の話ではなくて全体的な傾向の話であるから、全員がそうだと言い切れるわけではないのだけれど、生活の前提にあるものが違うと人の趣向も変わってくる。と僕は思っている。


自由が欲しくて東京に飛び出したけれど、東京には猛烈な競争社会があった。誰に何を言われるわけではないけれど、お金がないと家も借りられない。そのかわり人間関係で悩むことはほとんどなかった。自分の代わりはいくらでもいる。誰の目を気にすることもない。転職先はいくらでもある。ただ稼げなくなったら、アウト。


この世界は僕にいろんなことを教えてくれた。たった数年だったけれどシビアな競争の世界を経験できたことで、自分の持っている資質や才能に気づけた。東京に住んで家賃を払い続けている人のことを僕は無条件で尊敬している。快適な距離感を保つには力がいる。競争を履修しないとわからないことがたくさんある。


才能は競争を経て磨かれる。競争のなかにいる限り自由はないのだけれど、競争の中に身を置かない限り自分の持っている才能には気づけない。自分にとって簡単にできることが人には難しいと知る瞬間、そこには他人が必要なのだ。才能を発揮した自分を目撃した他人の反応を見て初めて「あ、これでいいんだ」と腑に落ちる。


だから自分の才能がわからない時は、同じ場所で「ヤマアラシのジレンマ」をずっとやっていてはダメなんだ。特定の人と距離感の駆け引きをしても自分の才能には気づけない。そんな時に必要なのは違う場所で生きるヤマアラシだ。いろんなヤマアラシと、何度でも針を刺し合うんだ。そうすることでわかることがある。


違うヤマアラシとハリを差し合って、自分の距離感を探る。そうすれば自然と「自分にしかできないこと」も「どんなヤマアラシとなら一緒にいられるか」も全部わかってくる。自分の生まれた群れ以外のデータを持っている人間は強い。人間の競争社会は競争戦だ。情報をいっぱい持っている個体が勝つ。


だから情報を集める。違う場所に住んでいる人間に会う。一度は競争の激しいところに身を置く。揉めて揉まれて移動して強くなる。他人の反応を見て自分を知る。戦えるようになったら戦う場所を選ぶ。ずっと戦ってる人は競争を降りてみる。いろんな経験をするからしっくりくるところに落ち着く。


僕は人生を「自分を知る旅」だと思っている。生きていればいろんな出来事が起こる。その度に心が動く。子供を抱いて初めて「子供がいるってこんな感じか」と思った。予習してたつもりだったけど全然知らなかった。そんなことばっかりだから面白い。今日も一生懸命人生をやっていく。

いただいたサポートはミックスナッツになって僕のお腹の脂肪として蓄えられます。