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あなたの当たり前は私の当たり前ではないことを爽やかに伝える

「旦那さんに稼いでもらえばいいじゃん」と、職場の男性に言われたことがある。

私は何とも言えない気持ちになった。

友人に、被害者ぶって話すことも考えた。でもそうやってひとしきり盛り上がることができても根本的に解決はしない。

こういう話をすると、ジェンダーの話になりがちだけど、私の”何とも言えない気持ち”は「あなたの当たり前は私の当たり前ではない」ということだった。

でも、このまま言ったところで主張が強すぎて伝わらない。相手だってこんな風に言われたところで「頭ではわかるけど、心ではわからない」という感じだろう。

彼を、彼の発言を否定したいわけではない。私と彼の”当たり前の齟齬”を認識して欲しかった。

でも齟齬の解消は面倒だから、私はなかったことにして、その人とはそういう話にならないようにする。

大抵はこれで丸く収まる。

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録画していた「R-1ぐらんぷり」を何気なく見ていて、これはすごいと思った。

優勝者の濱田祐太郎さんは、目がほとんど見えない。noteで濱田さんの漫談について書かれている方がいて、「見えない世界と一般世界との齟齬が生み出す笑い」と表現されていた。

例えば、友達に「濱田って運転すんの?」って聞かれて、するわけないじゃん目が見えないんだよ?って面白く語っていた。

ただただ、世界に”違い”があるだけなのに、それ忘れちゃってるよね?という話なのだ。

サポートが必要だからといって、腫れ物に触るようにして扱うのは、助けるふりして世界に段差をつけている。

あなたが感じる世界と私が感じている世界は違う。そして私の世界の方が上にある。

本当は、世界は並列なはずなのに。

世界の段差を相手から感じる時は、何を言われても良い気持ちがしない。

たとえ「すごいですね。」という一見褒め言葉のようなものであっても、意味が全然違う。

濱田さんの漫談には、「あなたと私の世界には違いがありますが、段差はありません。」ということが表現されていて、救われた思いがした。

目が見えないから、もっと優しく扱えとか言わない。お前たちは目が見えるからいいよな。とか言わない。

それは、自らが感じる世界に段差をつけるだけだとわかっているのだ。

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濱田さんは、物心ついた時から世界をフラットに考えていたのだろうか。

子供の頃から大切にされていて、屈折した感情は抱かなかったか。初めは目の見える人が言ってくる齟齬に腹を立てていたのか。今も齟齬にイラつきながら、「笑い」に昇華させることでバランスを保っているのか。

どれなのかわからないし、全然違う考えなのかもしれない。

齟齬が存在しているのか、存在した場合は齟齬をどのように感じるかは、丁寧に言葉を交わさない限りわからない。

そんなことを考えていたら、こんなnoteを見つけた。

「デザイン」という言葉の定義は、近年、拡張され続けているように思う。より広義な意味で使われているから、同じ言葉を使っていても別のことを話しているという状況になったりする。

でも、このnoteを書いたSeijiさんは「デザイン」という言葉の意味を相手がどのように使っているか注意を払っているそうだ。

こういう人もいるのか。すごいなぁ。

こんな風に少しずつ、齟齬があること、解消することが浸透していくのかもしれない。

未来の私たちは、齟齬を語るだけでコンテンツにできる時代があったよなと思うかもしれない。

そういう時代はきっと来る。

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