差別と、偏見と、無知と、何か
こんばんは!
埼玉県で介護福祉士をしている大西です!
今回のテーマは「知らない事」です。
このところ自然と「障害」や「高齢者」に関わってる人たちのnoteやTweetが目に止まります。
その中でも一つ心に残ってるのが「差別は形を変えて側にいる」といった言葉。
長い、長い記事の一つの見出しだった。
他にも沢山良いことを書いていたハズなのに、この言葉が凄く刺さった。
そんな事について書いていく第190弾です、よろしくお願いします。
差別とは目に見えた悪意だけではない
「差別」この事について考えた事のある人は日本人口の何割ほどだろうか?
差別とは目に見えないものだ。
今でこそセクシャルマイノリティ、障害や認知症なんかが世間的に認知され始めた。
皆さんの身近にもいると思うし、もちろん僕の周りにもいる。
性的マイノリティな友達もいれば、知的障害を持っている人もいた。
世間には悪意のある差別をする人もいるだろうが、僕の周りには幸いというか、そういった人はいなかった。
僕自身も特に障害や認知症、セクシャルマイノリティに対し何の偏見も無い。
というかそもそもある種そういったことに興味が無い…というべきか。
自分と違うものに対して特に何も感じない、というべきだろうか。
さて、それでは世間的にはどうだろうか?
世間的にも「差別はいけない」といった風潮は出てきているし、街には障害を持ちつつも出掛けたり仕事に行く方を見かけるようになったと思う。
それでは差別はなくなったのだろうか?
否、無くなってなどいない。
差別や偏見は形を変えて存在する。
形を変えて存在するもの
公共交通機関を皆さんも利用することがあると思います。
電車やバスは生活に必要な物であり、切っても切り離せないものですね。
障害を持った方、高齢になり体が不自由な方ももちろん利用します。
そんな場面で見かけるのが「特別な存在」といった空気感。
体に合わせた配慮は必要でも、何も特別扱いすることはありません。
場合によっては過剰に反応しているだけに過ぎませんし、なんか「自分たちとは違う」といったことをまざまざと見せつけられているように感じるんですね。
僕は現在高齢者の方と多く関わりますが、認知症の方も多くいます。
別に彼女・彼らは「特別」なわけではありません。
上手く言い表せませんが…そんな「普通じゃない」みたいな関わり方や空気感が差別や偏見を生んでいるような気がするんですね。
例えそこに「悪意」が無くとも。
それこそが偏見だったり、差別だったりする。
そんな風に思うんですね。
無知から生まれる差別や偏見
ではなぜ差別や偏見はこうして存在するのでしょうか。
「悪意」を持たない差別、偏見、それらはひとえに「無知」からくるものでしょう。
「知らない」という事は本当に怖くて、悪いイメージを想像しやすいです。
もちろん人の生存本能としては正しいのかもしれませんが、社会やコミュニケーションにおいては悪手です。
人は知らないものを勝手に悪くイメージし回避しようとしてしまう。
それは人であるうちは変わらないのかもしれない。
もう一つこうした事態を引き起こす原因があると考えている。
それは「良い人でいなくてはいけない」というこの社会が生んだ空気感ではないだろうか。
うまく言葉が出てこないが、打算的なやさしさ…というべきか、そういったポーズをとることで周囲から良い評価を受け取れるような。
それは何というか、目の前の人に対するものというよりは「周りの人間の為、己の保守の為」のポーズ的なやさしさ…
そんな風に感じる。
そのどれもが、元は「無知」からくるものだとしたら。
個人的にはとてつもない違和感を感じてしまう。
差別や偏見は形を変えて存在する。
社会が変われども、価値観が変われども、そうして存在していくのか。
そんな社会に自分が出来ることは何かないだろうか。
そんなことを考えていました。
それでは今回も読んでいただきありがとうございます!
次回もまたよろしくお願いします!!
未来を創る介護福祉士 大西
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