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赤く太い筆文字で題名が描かれていた頃の日本映画

 よく日本の映画を観るようになった。2022年に入ってからの鑑賞映画本数を数えると、28本(1月19日現在)。うち18本は日本の映画で、さらにそのうち11本が1950~60年代の映画だ。こうした映画のほとんどのポスターは、赤く太い筆文字で、力強く題名が描かれている。

 ぼくが古い日本映画に惹かれる理由はなんだろうか。自分でも良くわかっていはいないのだけれど、考えたら理由はいろいろと出てくる。

 まず、日本の古い映画では悪い人間が描かれることが多い。ヤクザであったり、チンピラであったり、不良少年だったり、ハンサムな若い俳優が悪い人間を演じる。ひとつ断っておけば、ぼくは決してこの類の、いわゆる反社会的な人間が好きというわけではない。憧れてもいない。そもそも、身の回りにそんな人間はいないため、実感も沸かない。
 ただ、それがどんなに極悪非道な人間であっても、「フィクション」というフィルターを通り、映画的な美化がなされ、ある程度の魅力を持った1人のキャラクターとして、スクリーンに映し出されると、多くの人間はそのキャラクターに感情を寄せ、身近なものとして感じる。悪い人間として描かれるキャラクターたちも、妙に人間味があり、愛おしく思えるのだ。
 鈴木清順の『殺しの烙印』(現在Amazon Primeで配信中)という作品はとある殺し屋についての物語だ。殺しの依頼をこなしていきながらも同業者からは狙われ、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの瀬戸際で生きているのにもかかわらず、口癖のように、四六時中、「米が食いたい、飯が食いたい」と言っている。張り詰めた物語の中、人間の3大欲求のうちの1つである食欲がありのままの姿で露わにされたこの言葉を聞くたびに、自分と何も変わらない人間らしさを持っている主人公に対しての愛情が徐々に大きくなってゆく。

 次に、この類の映画には今ではお目にかかれないものがたくさん出てくる。キャバレーのような場所がいろんな映画に描かれ、ぼくは密かに憧れている。ステージの上ではバンドがブギウギを演奏している。その中で女を連れたスーツの男がたばこを吸い、ジョッキでビールを飲みながら、時に踊ったり、騒いだり、賑やかにしている。
 鈴木清順の『踏みはずした春』(現在Amazon Primeで配信中)という作品にキャバレーが登場し、例の如くステージではバンドが演奏し、背後で人々が踊る中、主人公の男と女はビールを飲む。店員に「大にしますか?小にしますか?」と聞かれ、「なんでもデカイ方がいいに決まってらぁ」なんて言い、ビールを飲んだあとバンドの演奏に合わせて踊る。気持ちの良いシーンだ。


 そして何より、映像がキマッている。映像の連続にスピード感があり、全体的に無駄がなく簡潔な印象を受ける。お察しの通り、ぼくは鈴木清順という監督の作品が好きなのが、鈴木清順の『素っ裸の年令』(現在Amazon Primeで配信中)という映画には、特に好きなカットが挟まれている。2人の少年が盗んだバイクで走り出し、2カット目で商店街を走り抜け、3カット目で通行人の帽子が吹き飛ばされ、4カット目では散乱した荷物がアップで映される。5カット目にはベビーカーを押しながら商店街を横断しようとする女性が登場する。1歩踏み出し、バイクに気がついて立ち止まるも、ベビーカーから手を離してしまう。スヤスヤと眠る赤子を乗せながらベビーカーは前進を続け、間一髪のタイミンで、女性とベビーカーの間をバイクが通過する。この短いカットが繋がれる約20秒の間には、疾走感と、可笑しさと、緊張と、スリルが詰まっている。さらに言うと、人の手を離れたベビーカーが危険に晒されるという恐怖は、エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』の有名なそのシーンを想起させる。鈴木清順の映画には非常に多くの興奮がある。

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