“教育”に1ミリ触れてみる。【2023年6月2日】
6月2日。今日は全国的に台風の影響か、各地で大雨にやられていた。Instagramで、和歌山とか愛知とか千葉とか、特に関西関東圏の人たちはものすごく被害に遭っていた。みんな無事だっただろうか、
さて今日は、先日、高校生と話す機会があってその時の話をしようと思う。
まず、その子はとてつもない魅力に溢れていた。とにかく多趣味だった。特撮ヒーロー、仮面ライダー、コスプレ、西部劇、カウボーイ、、などなど。まだまだ他にもたくさんあって色々と教えてくれた。どれも、自分の知らない世界だったから、彼の好きな世界観を覗くことができて、とても楽しい時間だったし、何よりそれを語ってる彼が何よりも楽しそうだった。
そんな彼だが、ずっとモヤモヤしていることがあるらしく、「学校にいいイメージを持っていない」という悩みを共有してくれた。まあ、それはいろんな理由があったけれど、大きく分けると先生の対応と同級生についてだった。
まず、先生の対応について。勉強についていけないとか、体力的にしんどいとか、一旦休む期間が欲しいとか、色々と相談はしてるみたいだけど、「とりあえず学校来て、授業は出なさい」みたいな対応しかされないという。来たら来たでサポートはしてくれるみたいだが、それも「学校に来る」ことが前提。保健室とかにも行かされるけど、それじゃなんの解決にもならないと。
「他の教室で勉強したい」と言っても嫌がられるらしい。
そして、彼の話の中で、ちょうど俺が先日書いた内容のことと重なるところがあった。気になる方は一度読んで見てほしい。
それは、先生が「先生」として意見を言っているのかわからない。もっと先生個人としての「僕」として関わって欲しいという叫びだった。そして、彼(高校生)自身のことを「生徒」としか扱っていないようにも感じ、学校を辞めたいと相談した時も、その学校の「生徒」として残って欲しいのか、「彼」として残って欲しいのかをちゃんと伝えて欲しいと。やっぱり先生は制度化された「先生」を生きてるんだ。って改めて現役高校生のリアルな声からも感じることができた。
そして、先生は生徒をいいように使っているんじゃないかという意見もあった。探求活動してます、とか国際活動してますとか、それを通してこんな生徒を育てました!的な、あくまで生徒のためというよりも、”教師の見栄のため”、”学校の見栄のため”に僕らは使われてる気がするって。
これはあってはならない。絶対に。子どもは評価の道具ではない。先生のおもちゃでもない。
そして、二つ目の同級生について。中学の時に同級生からいじめを受けてたらしい。今になっても、高校の同級生をみると、「ああ、こいつは中学のあいつと似てるな」とか、過去のトラウマが蘇ったり、嫌な思い出と照らし合わせてしまうらしい。
すごくすごく、すごく悲しくなった。
なんで、あんなにも好きなことで溢れていて、語ることがたくさんあって、キラキラ楽しそうにしてる姿があって、言葉にする力もあって、ものすごく優秀で、誰よりも人思いなのに、「学校」という存在によって、潰されかけなければならないんだ、と。
いじめは絶対にあってはならない。
ちょうど今日、大学の授業でいじめを扱った講義があって。俺は、恥ずかしながらも、正面から「いじめ」と向き合ったことがあまりなかった。いじめが原因で自殺に追い込まれた学生のニュースを知って、しかも一件だけじゃない。ここ数年でも沢山あって。すごくすごく悲しくなった。
「いじめ」についても、今度、事例を取り上げてnoteを書こう。
「学校」ってなんだろう。
「居場所」ってなんだろう。
「先生」ってどうあればいいんだろう。
「いじめ」ってどうして起こるんだろう。
高校生との話をきっかけに、たくさんの問いをもらった。たくさん考える機会をもらった。ほんとうにありがとう。
今は、何もしてあげるだけの力はないけれど、せめて、考え、向き合うことだけはできるんじゃないかな。そして、それを発信することはできるんじゃないかな。
「1人が100知ってるよりも、100人が1を知ってる方がいい」
自分の発信をきっかけに、1ミリでも知ってくれたり、考える契機をもらってくれたら嬉しい。
いつもいつも読んでくださりありがとうございます。
教育はほんとに幅が広くて、奥が深くて、みんなが必ず通るもの。だから、学校に携わる人、子供に携わる人、そんな縛り関係なく、全人類が「教育」に関心を持つ社会になればいいなって、本気で思ってます。
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