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「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで考えた、息子の教育について。

積ん読になってしまっていた、ブレディみかこさんのノンフィクションエッセイ「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」をやっと読みました。本屋大賞やノンフィクション大賞など、絶賛の数々でハードルが上がっていたけれど、実際に読んでみるとそのハードルをさらに軽々飛び越える傑作。ということで冷めやらぬ熱を消化するために読んで考えたことを書きとめようと思います。



海外生活と教育

私は本書をかなり感情移入して読みました。というのも私も恐らく自分が育った国とは全く違う様々な国で子育てをする母親になるから。まだ生まれて100日と少しの息子と、間も無く海外での生活を始めることになります。

そのため教育についても軽く選択肢のインプットをしはじめました。どの国の、どの宗教の、どの思想の、どの言語の教育機関にどのタイミングで通わせるか。そのメリットとデメリット。

少しずつそんなことを考えているとそもそも息子にとって最適な教育環境はどんなところなのか?と考えはじめてしまいます。せっかく海外で勉強できるなら、英語も、プログラミングも、アートも勉強できる教育機関がいい...?どうせなら偏差値の高い...とよくわからない思考回路に陥りました。そこは日本の学校にしか通ったことのない私と夫にとって正直想像はつかないものの、夢の広がる情報がたくさん散らばっていました。


「教育方針を親が決める」ということの押し付けがましさ

しかし、本書を読むとそもそも「教育方針を親が決める」ということの押し付けがましさに気付かされます。

ブレディみかこさんの息子さんは自らの意思でいわゆる「最適な選択」である、カトリック系の私学ではなく底辺中学と言われる公立校に進学を決めます。その判断に到るまでの親子の関係が本当に素晴らしい。ご両親は懸念点や比較点を提示はするのですが、最終的には息子さんに判断を委ねたのです。

そのイーブンなやりとりは形だけ真似しようとしても意味がありません。なぜなら、そもそもの子供への対応が一般的に想像される親子の関係性とは異なっているからです。

親子の関係はしばし「教える側」「教えられる側」として固定されてしまいます。そして「教える側」である親は、こと教育に関して将来困らないために〜などと言い訳しながら、自分の考えを押し付けてしまいます。WEBに転がってる情報以外は大して何も知らないくせに。そしてそれが当たり前の状況になった「教えられる側」の子供は自らの身の振り方を自身で考えることを放棄してしまいます。

しかしブレディみかこさんには常に息子さんの考えをヒアリングし、息子さんの視点を新鮮に受け止め、自省する姿勢があります。質問をされても教えるのではなく、意見を述べてそれをどう捉えるかはあなた次第という姿勢で常に結論を与えません。

子供に答えを教えたり導こうとするのではなく、自分の頭で考えてもらう。私の意見が正しいとは思い込まない。その信頼を前提にした向き合い方はまさにわたしがこれから意識していかなくてはならないことだと感じました。


楽ばっかりしていると無知になる

そんな親子関係の甲斐あってか、息子さんは教科書的ではない現実にも、一つずつ自分の頭で考えて行動をはじめます。多様性は楽じゃないけど「楽ばっかりしていると無知になる」。この答えはまさにブレディみかこさんと息子さんだからこそ真に腹落ちする一生の学びになっています。

現在、SNSやWEBメディアのアルゴリズムが影響してか、答えを端的に出す情報が人気です。しかし、それだけでは完結しない問題が世界にも日常にも山積しています。

生活に忙殺されているとつい脳が楽な方に逃げてしまいますが、わたし自身も常に情報をインプットし、学び続けて、意見を聞いて、成長し続けないといけないなと感じました。それがきっと私の「息子の教育」との向き合うべき姿勢なんだと思います。

全てがハッピーではないし答えがあるわけでもない。だからこそ子育ても、海外という未知の世界で暮らすことも、そして人生もきっと楽しくできるんじゃないかな。そんな心持ちで息子に見合った母親になっていこうと思います。


 2020/09/10  NAKAO AYUMI

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