私の「大型地雷ゲーム」から得た学び
●はじめに
私は「現代寄りで・ファンタジー性が薄めのクライム&バイオレンス」や「種族・思想・体質などの点で異端とされる存在と、そうでない相手との(単なる同一化ではない)歩み寄りと共存」といった属性を嗜好するアマチュア創作家である。
その私が、心身が死にそうになるほどトラウマを負った既存作品、通称「大型地雷ゲーム」から学んだ「(少なくとも私の好みと美学の上では)創作で絶対やってはいけない禁じ手」をノウハウ共有のためにまとめたものである。
大前提として、大型地雷ゲと呼ぶ作品へのアンチ活動目的の内容ではないことをご理解いただきたい。しかし該当作品の名前を伏せつつもその内容をそこそこ具体的な例として出すので、その作品を察した方もなるべく作品名は胸に秘めておいてほしい。なお、それ以外で例に挙げる作品は普通に名前を出してるのでそこもご容赦いただきたい。
●前提「大型地雷ゲーム」ってなによ?(※ほぼ自分語りなので別に読まなくても問題無い)
その作品のファーストコンタクトは、「事前情報の範囲だと自嗜好にほぼ合致していそう」という印象だったのでとりあえず軽い感覚で手を付けた。それがまずかった。
その作品のクライマックスで悪い意味で衝撃を受けた。私が創作で重んじるべきと思っている要素、エンタメで嗜好している属性。それらを一つ残らず軽んじ全否定するかのような(と当時の私は受け取った)その内容にリアルで重症を負った。
具体的には数ヵ月は心身の健康がドン底だったし、1年以上まともに創作活動が手に付かなかった。ただの一瞬にして私の創作土壌を吹っ飛ばしHP1にしてきた、地雷を越えたトラウマトラップ、大型地雷だった。
とはいえトラウマ治療、そしてそこからの創作経験値の獲得のために色々な努力をした。深刻な体調不良を起こさない範囲で思い返しては「どこがそんなに好みに合わなかったのか」を理論的に噛み砕き、少しずつ消化した。
その甲斐もあってか、かれこれ3年ほど経とうとしていた頃には「あの作品で嫌だったところを自分の『好き』で補完した理想のゲームを作ろう」というコンセプトで創作に着手する余裕が生まれてきた。
そんなアイデアを捏ねまわしながら迎えた4年目ともなると、記憶の中のモヤモヤはさておき反射的な体調不良症状はだいぶ緩和されていた。そこでふと考えた。
「今一度、あの作品に触れたら、どこが嫌いだったのかを完璧に理論立てて整頓し、円満にトラウマとさよならできるのでは」
そしてその機会は思ったよりも早く訪れた。タイミングよく件の作品のメディアミックス作品の視聴機会を与えられたのだ。
そうして覚悟を決めた。メディアミックス込みで再履修した。思ったよりも苦痛は軽く、二周目かつ(多分)冷静な視野、メディアミックスとの照らし合わせによって、作品に感じた問題点をきっちり分析・整頓することができた。そうして、この記事を書けるまでに至ったのである。
以下は、その「トラウマ(≒作品への大きな嫌悪感情)」の源となった要素の解説である。
●舞台設定の基礎がそもそも土台として成立するだけの強度が無い
件の作品は、端的にいうと「(一人用の)デスゲームに投じられた主人公が、偶然にも協力者を得て二人で脱出を目指していく」という筋書きなのだが。
まずそのデスゲームの基礎設定からして深刻に破綻している。というか基礎が存在してるのかが怪しまれるレベル。
デスゲーム本来の「開催目的(ゲーム上でどういう行為・現象が発生することが主催者の狙いなのか)」「正規の(一人で挑んだ場合にデスゲームをクリア・脱出できる)解法」が最後まで全く明かされない。
ただただ「主人公たちを明確な運用理由も無い生死の危機のある施設に閉じ込め」「(なぜか飛び入り参加込みの人数である)二人で解く想定の謎解きが立ち塞がる」というご都合主義と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいレベルのずさんな構造で物語が進んでいく。
●「ご都合主義」的展開になんの理由付けも違和感緩和の工夫も無い
上述の問題点の延長線上の話になるが、本作では、「よくできた偶然」と呼ぶのすら厳しい、作中設定や整合性を無視してでも見映え良く物語を動かすためだけに存在する展開やセッティングが多々でてくる。
具体的には「作中キャラがなんの意図で用意したかよく分からないが、キャラの心理や画面的見映えを劇的かつ便利に誘導できるギミック」「キャラの根本的な心理・言動ルーチンの一時的な劣化やスルー」といった『ご都合主義』が多い。正直いちいち挙げるのも面倒なくらい多い。しかもそれらの異様な都合の良さになんらかのそれらしい理由をこじつける努力すら一切してないので全編に渡りご都合主義の印象がただただ増していく。(特に全容を知ってる二周目だと顕著)
作劇がご都合展開だとしても、作中でそこに強引な理屈や推察のこじつけ、それになんならギャグ的にツッコミがあるだけでも、かえってユーザーは納得できるのである。作中キャラが大真面目&優秀な頭脳でもって行動しているはずなのに作中のキャラの誰もがその大きな違和から目を逸らしているだけ、という印象が一番マズイ。
●最終局面、ヒロインの主要アイデンティティのインスタントな付与と消失。
この作品のヒロインは、「特定の加害・損壊行為に罪悪感を抱けない」という異常性を背負っていることが早々から示唆され、それが物語を動かす重要なファクターとなっている。
が、最終盤にて「『欲しいと思った相手を殺す』という殺人衝動」という微妙に別レイヤーの異常性が急に明かされる。
しかしそんな特殊衝動があることは今の今まで(先述の罪悪感の異常性とは違って)全く示唆されておらず、なんなら全編見てもデスゲームに投じられた遠因、それから一時的にヒーローと対立関係になる理由の一部としてしか扱われない。
しかも判明のすぐ後、クライマックス的な精神的成長のシーンでその衝動の所在が有耶無耶になるのだ。それも殺害衝動とは全く別枠の精神的成長であり、異常衝動を飼いならす、切り離すといった類の内容ではない。のに、それ以降全くその衝動についての示唆や言及が無いのである。
また、ヒロインは上述の異常性とはまた別に希死念慮も抱いており、それもまた物語を動かす一要素だったのだが、それもまた「精神的成長シーン」の後にその感情も急速にロジックと必要性を失っていく。
精神的成長により『死にたい』の欲求は『誰かに望まれて生きて、死にたい』と、生死セットでの欲求と価値観に昇華した……はずなのだが、それでも言い訳のように「死にたい欲求のほうが特別で強い」といった言い回しを頻繁に挟んでストーリーが進む。(しかし最後までその思考に至るロジックは非常に希薄な説明で流される)
精神的成長によって大きく変化したヒロインの心情を丁寧に考察・再整備するでもなく惰性で初期の価値観・行動原理のまま動かすのであれば「成長しない(変わらない)こと」に焦点を当てるべきであり、一時の感動のために安易な成長描写などいれるべきではない。
●結末に対する解釈余地の調整を完全放棄
この作品上ではヒロインは「心からの幸福を感じたら死ぬ」という設計になっている。主人公たちはそれを受け入れ必ずヒロインを死(≒幸せ)に導くという強い覚悟でもって絆を結び、デスゲームからの脱出を目指す。
脱出に成功した後なら、おそらくそれは容易に叶ってしまうだろう。
そんな二人に対し、作者はどういう結論と、終わりを見せてくれるのだろうか。
A:脱出してすぐ引き離されたものの再会できたよ。再会した二人が立ち去った空間を描写してエンド。
はぁあああああ????(半ギレ)
死の運命に囚われていた人間の生存エンドが憎いわけではない。
「『必ず死ぬ』ルールの隙間、それによって生存が叶う可能性」「当人たちが生存を求める意欲」の描写や伏線を一切挟まなかったのに??? それやる???
仮に生死をぼかすのを三百歩くらい譲って許容するとしても、ヒロインが本当に幸せに到達した(同時にほぼ死が確定する)指標としての『最高の笑顔』を作品内で実質最終目的地ともいえる重要な要素として取り扱っているのにも関わらず、そこに到達できたかすら明確に描写しないのも如何なものか。
死亡説が可能性濃厚、しかし生存の欲求やフラグの示唆もないまま生死どちらの描写も奪っておいて「生死どちらにも想像できるエンド」とするのは、ユーザーにはもちろん、キャラの生死どちら(ひいてはそれを繊細な天秤にかけた彼らの思想や生き様、その到達点)に対しても非常に不誠実なやり口だと思う。
●『怪物性』に対する致命的なテーマ表現の混線
この作品の終盤では、主人公らの主要な心の傷となってる「(他人から押し付けられた)『化け物(怪物性)』という定義からの脱却=私たちは人間である」と強調するシーンがある。
が、その一方で怪物性に起因した行動や性質(殺人嗜好や死を望む思考ロジック)を許容・遂行できる関係性が尊い、というまとめ方をしている。
『人間である』という言を強調したいのであれば己の中の怪物性との(別離にしろ共存にしろ)折り合いを丁寧に描くべきだし、今のままの怪物性を許容することの尊さを描くのであれば化け物の側面を切り離す(した)かのような「自分たちは人間だ」という言が逆にその尊さを否定することになる。
「化け物でも人間になれる(戻れる)」と「化け物でも(人間が享受する)自由や愛を入手・行使できる権利がある」の違いを無頓着に混同・同一視してお出しするのは、「結局主人公たちが己の背負う『怪物性』と、どう向き合うことを善しとしているのか」を曖昧にさせるし、なによりそれらのテーマにこだわり・嗜好を感じている人間への無自覚な攻撃(=侮辱や否定)になりうる。(少なくとも初周プレイの私はそういった攻撃と受け取ってしまったから今に至っている)
たとえば、ディズニーアニメ「美女と野獣」に対して「野獣を戻すことが絶対の善行として描写されている。どんな姿でも愛せてこそ真実の愛じゃねーのかよ」という論がよく出ているが、あの作品と結末の内で「野獣が人に戻るのを至上とする」で一貫しているのは一つの大正解なのである。
一番まずいのは「あの結末でありながら、作中当事者たちに『野獣のままでいたほうがよかった』と後悔・賛美させる」ことであり、それは用意されたハッピーエンドに水を差すし、野獣のままが良かった派の視聴者に「じゃあなんでそのエンドにしなかったんだよ」と不完全燃料感を増大させる誰得要素にしかならないのだ。
●終わり。学びと別離はポジティブに
以上が、私の最大級のトラウマ「大型地雷ゲーム」の再履修で得られた学びである。
単純な作品のこき下ろしではなく「私の好みと合わなかった点→ならどうするのが私の理想なのか」を明確に理解・言語化し学びの糧とするこの作業のおかげで、長年(曖昧な記憶や読み違えもあって余分に)増大させていたであろう怒りや苦痛の一切を取り除き、単なる「not for me(私向けでなかった)作品」の一つとしてこの作品と円満に遠ざかることができた、と思う。とても良い経験をした。二度とこういう出会いはしたくないが。
なお、この学びとそれに紐づく自嗜好を全力投球した作品をただいま製作中である。期待しててくれよな!!!(完成してもいないのに便乗宣伝)