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読まれない文章でも公開したほうがいい6つの理由【なぜNoteに投稿するのか】

『頭で考えると思考力は小学生以下になる』で説明したように、自分のために文章を書くメリットは確かにある。

だがそれをNoteに公開する必要性はあるのだろうか?


ごく一部の成功者を除いた大半の人間は、いくら文章を書いたところで金にならない。

読者からの反応だってそんなにない。

それどころか反応の少なさにショックを受けることのほうが多いかもしれない。


だがそれでもなお文章は公開したほうがいい。

以下のメリットがあるからだ。


メリット① 文章が洗練される


Noteに公開する利点の一つは、文章が洗練されることだ。


たとえば休日の過ごし方を振り返ってみてほしい。

よほど意識の高い人でない限り、だらしない格好でぼんやりと時間を浪費している場合が大半ではないだろうか?

良くも悪くも気が緩んでいるのだ。


一方で外出するときはどうだろう。

髪を整え、歯を磨き、服装や姿勢にも気を配る。

家よりもカフェや図書館のほうが勉強や作業が捗るのは、他人の視線が適度な緊張感を生み出し、集中力を高めてくれるからだ。

つまり他人を意識することで気が引き締まる。



文章も同じだ。

読者がいない文章はどうにも締まらない。

やたら感情的だし、要点は不明瞭だし、いまひとつ思索も深まらない。

無精髭を生やしたダラしない言葉ばかりが延々と続く。


ところが読者の存在を意識するとこれが一変する。


まず文章が落ち着く。

感情が高ぶりすぎた文章は読者に引かれてしまうからだ。

[……]観察者が心に抱く情動が、あらゆる点で彼自身のそれと拍子を合わせているのを眺めることが、彼にとって比類のない慰めとなる。だが、これを確保する望みは、観察者が拍子をとりながら合わせられる音調(ピッチ)まで彼の激情を下げなければ、かなえることができない。

アダム・スミス『道徳感情論』高哲男訳,講談社.


だから読んでもらえる温度まで熱を冷ます。

すると失った熱の代わりに客観性と論理性が生まれる。


言葉選びにも慎重さが加わる。

汚い言葉や攻撃的な言葉は、自らの株を下げるため使わない。

同一フレーズや紋切り型の言い回しも極力避ける。

しっくりくる言葉が見つからないときは、類語辞典を探してみたり、しばし時間を置いてみたりする。


読み手が退屈しそうな部分はできるかぎり削ぎ落とす。

矛盾を突かれぬよう、論理の一貫性にも細心の注意を払う。

スムーズに内容が入ってくるよう、文章全体の構成を見直す。


このようにして文章は洗練されていく。

そしてその過程で、自分にだけ向けて書いていたら気づかなかったであろう発見がしばしば生まれる。

まず第一に、敵意がもつ最も有害な点が、もし人々が注意を払うならば、最も有益なことになりうると私には思えます。
(中略) 
敵は眼を覚ましてあなたの行動をつねに見張っていて、あらゆる点から取り付くところを探してあなたの生活を嗅ぎまわっています。
(中略)
そのことが、用心深く生活すること、自分自身に注意を払うこと、軽はずみに思慮を欠いた発言や行動をしないこと、攻撃の隙を与えないよう厳格な規律のもとにあるかのように生活をつねに注意深く見張ることに導くのです。

プルタルコス『モラリア2』瀬口昌久訳,京都大学学術出版会.


メリット② 理解を深める


より多くの読み手に想いを伝えるには、分かりづらい表現はなるべく避けなければならない。

順を追って、明晰かつ簡潔に、論理を展開していく。

そのためには自分が伝えたい内容を深く理解している必要がある。


「ラーニングピラミッド」というモデルを見たことがある人も多いだろう。

それによれば、他人に教えるのがもっとも記憶に定着しやすいらしい。

分かりやすく伝えようとする努力そのものが、結果的に自分自身の理解を深めるのだ。

出典:キャリア教育ラボ

(※ラーニングピラミッドは根拠の乏しいデタラメだという批判も見られるが、誰かに教えようとすると理解が深まり記憶に定着しやすいことは経験上確かであるように思える。)


メリット③ 再読できる


僕はほぼ毎日、日記をつけている。

長いときには数千字にも及ぶ。

ところがそれを読み返すことはあまりない。

まとまりがなさすぎて、とても読み返す気にならないのだ。


一方、Noteに書いた記事は何度も読み返す。

無駄な部分が削ぎ落とされており、再読に耐えられるからだ。


こう言うと気持ち悪いかもしれないが、僕にとって最も癒やしになる文章は自分が書いた文章である。

お気に入りの書き手は何人かいるが、それでもやはり自分の文章が一番かゆいところに手が届く。

読者を想定して推敲した文章は読んでいて気持ちがいい。

[……]わたしはひたすら自分のためにわたしの夢想をしるすのだ。わたしがもっと年をとり、この世を去る時が近づいて、いまそう願っているように、そのときも現在と同じ心境にあるならば、これを読むことは書くときに味わった楽しさを思い起こさせ、過ぎ去った時代を胸によみがえらせ、いわばわたしの存在を二重にしてくれるだろう。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』今野一雄訳,岩波書店.


メリット④ 本を読み返すきっかけになる


この記事でもそうだが、僕はたびたび本の引用を入れている。

文章のちょっとしたアクセントに、あるいは説得力を増すために、いわばレトリックのひとつとして使っている。

このとき引っ張り出す本は、たいていどれも別の時期に読んだものだ。

なかには何年も前に読んだ本もある。


記事を書いている途中で

「そういえば以前読んだ本の中にこの記事に合いそうな文章があったな」

というふうに読書ノートをいくつか見返す。


すると新たな発想が浮かんだり、

別の記事のタネが見つかったり、

行き詰まった文章の突破口が見えたり、

時間の経過により忘れていた内容を思い出したりする。

以前読んだときには見えなかったものが見えることも少なくない。


そういうわけで、一度読んだ本を読み返すきっかけとしてもNoteは大いに役立っているのだ。

こんな機会でもないと、なかなか一度読んだ本を読み返そうという気にはならない。

また、読んだ内容を自分なりに調理し発表する場があることで、読書に対するモチベーションを高める効果もある。


メリット⑤ スッキリする


僕の記事は9割が愚痴だ。

そして同時に自分への慰めでもある。


愚痴というのは壁に向かってぶつけてもあまり効果がない。

聞いてくれる相手がいてはじめてスッキリする。

ありがたいことに僕の愚痴を読んでくれる人は一定数いるようなので、記事を書くたびにスッキリさせてもらっている。


世間では愚痴は良くないものとして扱われることが多い。

だが僕の見解は違う。

僕の心をもっとも軽くしたのは誰かの愚痴だった。

自分以外にも同じ不満を持つ人間がいる。

それが何より救いになった。

若し我々が、我々を教育するために、或は我々の心情を慰めるために、何かを書いたのだとすれば、我々の反省は他の大勢の人々にも役に立つことであろうと信ぜられる。まったく、何ぴともその種における唯一人ではなく、我々は、物事を我々自身のために論ずる時ほど、真実で、敏活で、又感動的であることはないのである。

ヴォーヴナルグ『不遇なる一天才の手記』関根秀雄訳,岩波書店.


メリット⑥ 自分を深く理解できる


文章が洗練されることによって自分への理解がより深くなる。

なぜそれが重要かというと、自己理解は幸福に通ずる最短ルートだからだ。

この話は長くなるので別の機会に話そう。



やってはいけないこと


以上のように、文章を公開することは自分にとってプラスに働く。

ただし一つだけやってはいけないことがある。

嘘をつくことだ。


僕はとくに多いのだが、読者が欲しているであろう言葉と自分の本音とが対立することがよくある。

どう考えても自分の本音はウケが悪いだろう、というのが書く前からわかるのだ。

スキやフォローを増やしたいのならウケの良い意見を書いたほうがいい。

つまり承認されるために媚びを売るのだ。


だがこのようにして得た称賛は無価値である。

仮面を被った自分が誉められるほど、本当の自分はますます惨めになっていくからだ。

真の承認を求めるのなら、たとえそれが世に受け入れられないとしても本音を書かなければならない。

化粧する女性は、彼女の肌の色つやに対する褒め言葉から、ごくわずかしかうぬぼれを引き出すことができないに違いない。それは――我々が予想すべきことだが――むしろ、彼女の本当の肌の色つやが呼び覚ますような感情を彼女に思い出させ、両者の大きな違いが、より大きな屈辱を味わわせるはずである。

アダム・スミス『道徳感情論』高哲男訳,講談社.


消えた友人欲求


僕は小中学校時代に友人がひとりもいなかった。

だから友人がほしいという欲求が人一倍強かった。

高校以降では多少の話し相手ができたものの、悩みを打ち明けられるような深い仲になったことは一度もない。

「なんでも話せる友人」を心のどこかでずっと求めていた。


ところが最近その欲求がまったくない。

現実世界に友人がいなくても、今ではほとんど寂さを感じなくなった。

ブログという本音を吐ける場所ができたからだろう。


友人がいない人ほど、文章は公開したほうがいい。

「他人の目が気になって仕方ない」という気質は、社会生活では往々にして不利に働く。

ところが書くことにおいては、この気質こそが洗練された文章を生みだすための最大の強みとなる。

世にはその欠点がなかったらその才能をついぞあらわさなかったであろう人々がいる。

ヴォーヴナルグ『不遇なる一天才の手記』関根秀雄訳,岩波書店.

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