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アートは、なんのため?

 某アーティストの”母”テーマの作品制作に参加したことで、身近なコミュニティ以外の”母”仲間ができた。その仲間たちと、昨日、北鎌倉の建長寺にある虫塚を見に行った。
 「好き」をベースに集まっている集団は、心地よい。それが、”アート”の場合、正解がないから、間違いもないわけで、否定されることのない自由が保証されている。感じたことをアートに託してそのまま話してしまっても大丈夫という安心感がある。

 虫塚は、昆虫好きで知られる養老孟司さんが虫供養のために作ったもので、隈研吾さんの設計。


それを五感でもって感じてみる、というのを、みんなでやってみた。

 モニュメントそのものは籠やケージを思わせる金属の網で作られている。それが渦状なので、なんとなく”巡ること”や”時の流れ”などを感じさせる。
 周囲には、虫の断片のオブジェが置かれていた。そこに、養老孟司さんの、殺してしまった虫たち、断片にしてしまった虫たちへの想いを感じた。と、いうのは私の感想。

 モニュメントの置かれた”場”は、前側が竹林、後ろ側が崖になっている。崖には大きな穴が二つ開いていて、私達が訪れたときにはちょうど崖の半分に日があたり、もう半分は影になっていた。そうした”場”に、陰陽を感じた人もいた。

 人の感想を聞くと、あ、そういう視点はなかった、というのによく気づく。それから、自分ひとりではよく分からなかった思いに、他人の言葉が答えてくれることもあって、腑に落ちて、そういうことだったのか、と感じることもある。

 モニュメントを見て、都会の虫をいつも「可哀想だな」と感じていたという自分の内面に気づいた人もいた。鏡のように、作品が自己の内面を映し出すこともある。

 私は、アートの意味は、作品と鑑賞者の間らへんに生まれるものだと思っている。アートを鑑賞すると、必ず引っかかりがある。誰でも、何か引っかかることがあるんじゃないかと思う。
 引っかかりがないものは、つまらない。引っかかりがあるものに出合いたい。私は、いつもそう思っている。

 私は、アートを単に気分転換にしたくない。気分転換そのものは、絶対に必要だし、明日を生きる勇気を持つためのアートも絶対に必要だ。でも、問題を抱えた自己を一時的に元気づけるための栄養ドリンク的アートには、もやもやしてしまう。それは、人が抱えた問題を放置させるための毒ですらあると思っている。

 ”知りたい”欲を満たすというか、より強くさせるのもアートだと思う。知らない国の知らない人たちの、知らない時代の知らない生き物の内側に思いを馳せることができるのも、アートの良いところだと思う。

 私は、いろいろ問題を抱えている。自分のことでも、家族のことでも。でも、その問題を、どうにかこうにか社会に適応することで忘れてしまうのは嫌だなと思っている。それこそ、栄養ドリンク的にアートを消費することで乗り越えて、私が抱えているのと同じたぐいの問題を、次の世代に押し付けたくないと思っている。(私の問題は、個人的であると同時に、社会的でもある。)アートには、私の抱えた問題を忘れさせることではなく、記憶させて欲しいと思っている。

 昨日、戸塚のこまちカフェの代表森さんのnoteに、「知りたいがベースにない社会」という話があった。↓

 森さんの文章を読んで、よりアートを無為に消費したくないという気持ちが強くなった。アートを足がかりに、次の一歩を踏み出したい。
 便利で、楽で、そして自分の生活に満足している状態の方が良い。でも、その状態は、実はいつまで続くかわからない不安定なものだ。守りに入っても、変化は止められない。社会、そして自分のライフステージは必ず変化していく。
 変化していく社会や自分を鏡のように見せてくれること、”知りたい”気持ちを掻き立ててくれることを、私はアートに求めたい。

 出かける間、三歳児を一時預かりに行かせた。おかげで、じっくり感じたり、考えることができた。
 混雑した駅の構内を歩いていて、感じた。これだけたくさんの”何か”を抱えた人たちがいる。自分の抱えた”何か”は、その中で、相対的にとても小さくなってしまった。だからといって、私の問題が消えてしまうことはなく、相変わらずぷすぷすとくすぶっているのだが。そして、私は、このくすぶり続ける”何か”を消すつもりは毛頭ない。

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