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人の器

いつもは、そうだそうだ!と前のめりに言えることに、今日はそうなれなかった。

「子を、周囲の人たちと一緒に育てていきたい」
そういう想いを共有してきた私の友人たちは、子育てしている同じ立場の人から私が責められることに憤りを感じてくれる。
子のことでこちらが迷惑かけたとはいえ、子の個性で周囲と摩擦が起こってこちらも困っているのに、どうして一緒に考えてくれないだ、と。

もちろん、私自身、憤っている。が、今は単純に怒ったり悲しんだりできなくなっていることに気づいた。

それはたぶん、私が今、弱者側に立っているからだと思う。
弱者(そして、マイノリティ)として、実際に責められているからだと思う。

そこのところ、もう少し、深めてみたい。
まず、責められてダメージを受けると、もう社会と関わるのが怖い自分がいる。
この状態は、実は責める側とも共通しているような気がする。

弱者(マイノリティ)を責める人たちは、こうした人たちが置かれた複雑な状況に耐えられないのかもしれない。
「親の教育が悪い」
「社会を震撼させる事件を起こすのは、サイコパス」
それが答えなら、自分たちとは関係ない問題だと思えて、安心できる。

私は、今、個人が置かれた複雑な状況を受け止めるだけのキャパシティがない自分、を強く意識している。
以前は、コミュニティ食堂の運営に関わったり、主に子どもたちのために地域の居場所づくりをしたいと思っていたが、正直、しばらくは、自分の子以外の子に一切関わりたくない。(回復したらやりたい気持ちはあるのだが…)

ちょっと話は変わるが、前回のEテレ「チコちゃんに叱られる」で、自分、考え変わったなと思ったことがあった。
エレベーターの中がしんとしているから、みんな自由に話せばいいのにと思って自分が最初に話し出す、ということをミキの昴生さんが話していた。ロケバスとかでも話しているタイプらしく、それは、周囲を楽しませたくて、スイッチがオフにならないからだそうだ。
その話を聞いて、私は今、「しん」としていたいから、むしろ静かにしてほしいなと思った。そして、それは疲れているからで、楽しませたい気持ちはありがたいし、楽しいのは素晴らしいけど、楽しい空気も辛いときがあるな、と思った。

自分は、今まで昴生さんに近かったような気がする。
居場所づくりは、人との関わりが楽しくてやってきた。それで、子どもにも学校以外の居場所ができるなんて、最高だと思ってきた。
でも、今はそこに行くことが必要な立場でありながら、全然行きたいと思わない。それは、そこにいる人たちが、私が心許せる仲間ではないから。

同じ立場だからといって、理解し合えるとは限らない。なぜなら、人の器は全然大きさが違うから。子のトラブルを経て、それを思い知った。
悲しいけれど、私は自分の器の小ささを知った。
居場所づくりをしたい、なんて、口先だけだったな〜と、反省している。

でも、友人たちの器が、私などよりずっと大きいことを、知っていたけど改めて感じて、それは本当に嬉しかった。
私の友人たちは、それこそおのおの複雑に大変な状況下にあるのだが、それでも諦めずに「どうして子への思いは一緒のはずなのに、他人の子のことは一緒に考えられないんだ!」と憤ったり、口先だけでなく子育てに関わる活動を実際沢山やったりしている。

価値観を共有できる仲間を得られるというのは、本当に稀有なことだと思う。本気で活動しないと得られないし、心を開かないと得られない。そう考えると、過去の自分も、まずまず頑張ったのかなと思う。

そんなことを思った日だった。


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