#003 / Living in KYOTO -京都在住時代-

高校を卒業後、田舎を離れ京都市内にあったコンピューターの専門学校に進学をした。
田舎を否定する気はないが、とにかく生まれ育った土地ではあったが、舞鶴という土地を出たかった。
当時の自分にとっては、具体的に「なにが」と言う訳ではないが、とても窮屈で、つまらない場所でしかなかった。

京都市内の学校に通うため、京都駅からほど近い「伏見区」の安い学生寮に居住をかまえ「学生生活」「都会暮らし」「独り暮らし」がスタートした。
学生寮とはいえ、専門学校の学生寮ではなく、近隣の大学など様々な学校へ通う「学生向け」の個人経営の学生寮。
6畳一部屋、風呂トイレ共同で当時月¥7,000-だったと思う。

住んで居た多くの学生は大学生で色々な学校の生徒が居た。学校は異なれど、共同のキッチンやシャワー室などで顔を合わせていると、それなりに会話が始まり、仲良くもなって行く。

ある日、あまり顔を合わせたこともない寮生に声をかけられた。顔を合わせて事が無いと言う事は、もちろん話しをしたこともない。

「今度、自分が企画をしてダンスパーティーを開催するんだけれど、その告知の手伝いをして欲しいんだ」

なぜ、俺に声をかけてきたのかは未だに不明。
話しを聞くと、他の大学の学生達もパーティーに呼びたいため、大学をいくつか巡り、振り付けを踊ってパーティーをPRしたいのだと。

先の記事で書いたように「ディスコ」を経験し、ダンスという物に触れ、感銘を受けたのは事実。
しかしその後、足繁く通ったわけでもなく、京都に出て来てからどこかのディスコに遊びに行ったわけでもない。
気持ちはあったけれど、その初体験の時1回だけしか踊った経験はないのだ。
なぜ彼は、そんな俺に声をかけたのだろうか?

そして、話しを聞くと、振り付けはその彼がすると、というか、アーティストのプロモーションビデオの振りをコピーする。

そのアーティスト・曲というのが、ジャネット・ジャクソンの「Miss you much」という曲。

彼の部屋で、このビデオを何度も何度も繰り返し見ながら振り付けを覚えて行く。

人前でダンスを披露するなんてもちろん初めてのことだし、それ以上に、自分以外の人と一緒に踊るというのも初めて、決まった振りを踊るというのも初めて、と初めてづくしである。

ただ、この時はまだ自分自身がダンサーだとか、この先ダンスを続けていくとか、そんな事は全く考えもしておらず、ただ、なんとなく「頼まれたから」「楽しそうだから」という理由だけであった。

しばらく練習を重ねた後、実際に学生が行き交う大学校内の路上でダンスを踊り、俺を誘った彼は、せっせとパーティーの告知チラシを配布していた。

ダンスの出来がどうだったのか、実際パーティーの集客が出来たのかというのは不明である。
自分的にも、正直あまり記憶が残っていないのも事実で、時の流れと共に正に「流れて行った」そんな時間であった。

通っていた専門学校には、自分が受けていたコンピューター学科の他に、様々な学科がある「総合専門学校」であった。
その頃、何故かパンクロックがお気に入りだった自分。今では想像も出来ないが、底の分厚いラバーソールを履き、破れたTシャツにピチピチのデニム、サーモンピンクに染めたロングコート、そして極めつけが、当時流行っていた「BUCK TICK」のボーカルのように高く逆立てた髪型で、まさにパンクロックな容姿で学校に通っていた。 <= しかも「コンピューター学科」だよ(爆

そんな容姿だったり、音楽的志向であったりもして、なぜか「音響学科」の学生達や教授達と仲良く、音響学科に入り浸っていた(笑

その学部の掲示板に「アメリカ NAB SHOW 視察ツアー参加者募集」という告知が目に止まった。
NAB SHOWというのは、世界最大の「映像・放送関連展示会」で毎年ラスベガスで開催されている展示会である。

ぶっちゃけ、NAB SHOWには全く興味がなかったのだが「アメリカに行ける」というのが心に止まり、親を説得しこのツアーの参加する事にした。(何度もいうが自分は「音響学科」ではなく「コンピューター学科」である)

このツアーに参加したのが、学校からは学生が自分を含めて2人、教員1名、後は、某関西ローカルのテレビ局の局次長、局の下受けの照明会社社長、東京のプロダクションのプロデューサーとツアーを企画したコーディネーション会社の人というこじんまりとした人数ではあるが「業界人」が集まったツアーであった。

サンフランシスコからラスベガス、そしてLAと回った1週間ほどのツアー。
NAB SHOWは置いておいて、毎晩飲めや騒げのドンチャン騒ぎ(爆)楽しかった〜。
自分にとってはなによりも、アメリカという土地に触れることが出来たのが大きな経験・刺激となった。

このツアーに参加した面々とは、帰国後も親交があり、毎月1度みんなで集まって「飲み会」が開催された。

2年という専門学校の期間はそう長くはない。
卒業という時間が迫ってくる中、就職をどうしようかと悩み始めて居た。

これまで、小学3年からコンピューターに向かい始め、当然のようにプログラマーを目背していた自分、その為に専門学校にまで入ったし、親も、その当時急成長中だったプログラマーという職業に就職することを望んでいた。
しかし、フト思ったんだよね。
これまで、ずっと「画面と睨めっこ」をしてきた、そして、これからプログラマーになったら、これからもずっと「画面と睨めっこ」な人生だなぁと。
そして、同時にそんなのは「嫌だ!」。もっと「人」と一緒にする仕事がしたい!!と思ったのさ。

ツアーで一緒だった局次長に電話を入れ思いを伝え相談をした。
「じゃあ、照明会社の社長に連絡をしてみろ」と。
社長に相談の電話を入れた。
「とりあえず入社試験を受けなさい。後はどうにでもなるから」と(笑

無事に照明会社に就職をし、京都を離れ、大阪へ居住を移すことになった。

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