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創価3世として

画一化された人間への嫌悪は、会館での勤行からきている 異様だった

毎月の会合と座談会は子供の私にとって退屈で、ただ正座をしながら畳の網目を数えるだけの時間だった

正月はもちろん、春休みに入る前日の修了式、七五三も、全部会合に行った

小学校の卒業式の次の日には、前日着たお気に入りの卒業式用の服で会館に連れていかれ、一番大きな部屋のご本尊の前でAKB48の卒業ソングを踊らされた

2週間分の土日を返上してAKB48の踊りを練習させられた

合唱団にも入れさせられた

歌が下手なことは自分でも分かっていたのに、それを自覚しながら歌うのは苦しかった

努力は絶対無駄じゃない、と歌う自分を好きになれなかった

毎週末の練習がとにかく嫌だった

それでも、生粋の学会員だった母親と母方の祖父母を裏切りたくない、嫌いになりたくなかったから最後までやり遂げた



全員が同じ方向を向いて全員が同じペースで漢字の羅列を読み全員が鐘の音に合わせて俯き祈る

どうしてこんなにたくさんのおとなが集まっているんだろうといつも不思議だった

皆、必死で祈っていた

畳の上に敷かれたブルーシートに車いすが何台も並んでいて、その隣にはどうにかしてご本尊に正座している姿を見せようと、必死で自らの身体を支えているよぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんがいた

正座をしていないと、祈る資格がないとでもいうように

ご本尊の前に座り、最前列で勤行の指揮をとる祖父の背中をいつまでも覚えている

誇らしいと思いたかった おじいちゃんはすごい人なんだよと言われて、得意げにならなかったわけではない

でも、少しでも気を緩めるとその背中がとてつもなく空虚に見えた




母親とは学会への価値観の違いについて何度か衝突できた

きっとこの学会への違和感を飲み込んで、発信することすらできなかったら、今私は文章で心情を整理し、訴えるという理性的な手段をとるには至っていなかったと思う

統一教会の一連の事件があってからは特に感じるようになった

だが、この学会への違和感の表明だけが、母親に対する自己表現になってしまっていたのも事実だった

反抗期はなかったが、初めて母親に対して抵抗を示したのは高校生のときだった

学会関連の何かしらの資格をとりなさいと言われ、それを断ったのがきっかけになった

それまで、小学生の頃は地区の同級生やお兄さんを好きになることで、会合や座談会に行くモチベーションをなんとか保っていた

私にとって学会を拒むことは母を裏切ることと同義だった

周辺にいる男性を好きになれないと気づいてからはその手段もきかなくなり、なあなあな態度をとり続け、明確に学会活動に対する姿勢を示すことはしばらくなかった

勤行をしろと言われたら、正座をして手を合わせ、口をパクパクさせていた

そして高校生になり、資格の話の流れのまま、意を決して学会活動はもうしたくないという意志表明をした それは私のそれまでの人生を込めた賭けだった

学会を拒んでも、母は私を拒まないと、どこかで信じていたから

私がどんな思いでいたとしても、愛していると示してほしかった

でもその期待は雲散霧消となった

当時婦人部長を務めていたこともあり、町内の学会員の視線を気にしてか人格、趣味嗜好の否定、しまいには「ジジもババも否定して、裏切ることになるんだよ」と

学会員になれなかった私は、母親にとって無償の愛の対象ではなかった

物分かりは良いほうだった

母親の面子を汚さぬように、私が母と繋がれていられるように、祖父母を恨まないで済むように、資格勉強をして、会場に行って試験を受け、合格した

母と私をむすんだはずの資格の名前をいまはもう思い出せない

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