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優しさに包まれた不平等条約。

どっかの誰かの歌に、違う違うそうじゃない、だなんてありますが、欲しい言葉はそれじゃないのになと思ってしまうことがある。

自分を心配してくれていたり、相手にとっては優しさだったりするのが分かると、無下にもできない。私はこれを、優しさに包まれた不平等条約と名付けた、というお話。(結論)

にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。

私は集中すると寝食忘れて没頭する癖がある。
集中しにくいので1度集中すると抜けられない。集中力が切れた後、再び集中するのが難しいから、出来るだけ集中している間にやってしまいたい。ADHDの特性でもあるし、ASDの特性でもある。過集中というやつ。
(拙者、ADHDでASDなのであります。)

集中しているというよりも、夢中になってるだけなのかもしれない。

なんでもそうだけど、夢中になってしまうと、それしか目に入っていないから他のことまで気が回らない。別にADHDじゃなくたって、みんなそうなんじゃないのかなと思う。好きなこと、楽しいことって、いつまでも続けていられるでしょ?

過集中のせいで生活リズムが乱れがちだったり、お天気だったり、断薬のせいだったり、割といろんなところで体調が左右されがちな私。起きたはずなのに、いつの間にか死んだように眠っていることもある。

そんな私の日常を、心配してくれる人が居るというのは本当にありがたい。心配してくれるその気持ちがとても嬉しい。そうして見守ってくれている人たちのおかげで、日常が保てているのだから、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

そんな状態だからこそ、心配だったんだよと気持ちを聞くと、申し訳なかったと思う。心配かけないように何か出来たかな?と考える。それでも私は私の気持ちや状況がある。心配して注意してくれるよりも、頑張った日くらい、私の頑張りをまず先に認めて欲しいと思ってしまった。私のワガママなのかもしれないし、認めて欲しいだなんてエゴなのかもしれない。

相手の気持ちは分かるからこそ、ごめんねとありがとうとしか言えず、モヤモヤしたものを、ぐぬぬと飲み込むのである。

こういうことって、よくある。
相手の優しさや思いやりの背後で、なんかモヤモヤしたものに出くわすやつ。

これは相手と自分の間柄にもよると思うが、端的に言ってしまえば、ありがた迷惑だったり、お節介だったりするのであろう。
優しさに包まれてこちらに届くそれは、何かが包まれてるのは分かるのだが、何が包まれているのか、私にはずっと分からなかった。

一体、何が包まれているのか。

それは、送り主の安心感という空っぽの器なんじゃないだろうか。

他人から差し出された空っぽになった安心感という器に、受け取り側が、ありがとうとかごめんねと言いながら、トポトポと注ぐのである。優しさに包まれているから受け取ってしまうけれど、包みを開けてみたらお酌せえと言われていたのである。

全然、優しくないじゃない。

優しさに包まれているだけで、優しさに見せかけて相手の罪悪感とか優しさにつけ込んだ、不平等条約ではないか。

心配と安心って違う。
自分の安心感のために人をコントロールするのは、もっと違う。心配って心配りって書くけど、それは安心感を得るためのものじゃない。

安心の先には依存があると聞いたことがある。依存の全てが悪いわけじゃないけれど、心配や優しさという相手を思っているような包み紙でくるんで、自分の安心感のために人をコントロールするのは何か違う気がするのだ。

優しさって、相手と自分とで中身が一致しないと、本当の意味で気持ち良い受け渡しは出来ないものなのかもしれない。

こんなことを書いている私だって、同じことをしているのかもしれない。

きっと、優しさと、安心感の器を、別々に渡せば良いのだろう。
気持ちは気持ちで届ける。そうすれば優しさの純度100%で届くではないか。
空っぽになった安心感という器を満たすためには、どうすれば良いのか。それは両者が落とし所を探せば良いのである。一方的な優しさという無言の圧力を使って、お酌せえと言わなくても。

私は優しさをプレゼントしたい。そう思った。
受け取ってもらえたら、私だって嬉しいから。

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