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読書レビュー「その峰の彼方」笹本稜平

───人はなぜ山に登るのか

という問いに正面から愚直に挑んだ山岳小説だと思います。

主人公の津田悟は冬のマッキンリーの難ルート単独登攀をして、遭難。
友人の吉沢と地元山岳ガイドたちによる捜索行を通して、
津田はなぜ危険な単独行に挑んだのか?安否はどうなのか?
という事だけに焦点を絞って、
余計な伏線を張らずシンプルに描いています。

冬のマッキンリーと言えば、冒険家の植村直己氏が遭難した山としても有名で、ヒマラヤのエベレストと比較してもその危険度は高い山。
と、素人でも知っているのではないでしょうか。
そんな山に自ら踏み入って、命を懸けて、登って帰ってくるという行為は、
常人からすれば意味不明なクレイジーな行為です。

ではなぜ登山家たちはそれをするのか?
という疑問に、笹本さんは、愚直に応えようとしています。

その答えは読んでのお楽しみという事で、ここでは明かしませんが。

僕は山岳小説、結構好きで、笹本さんの作品では「還るべき場所」「未踏峰」。
夢枕獏さんの「神々の山嶺」などを読みました。
そこで見出したのは
「なぜ山に登るのか?」という問いは、「なぜ生きるのか?」という問いに等しいという事です。
登山家の人たちは、一見自殺行為にも思える、危険で困難な登攀をすることによって
逆に命を燃やして精いっぱいに生きようとしているらしい、という事です。
そこに「生きる意味」を見出そうとしているらしい、という事です。
あと、「未踏への挑戦」という意味もあるようです。
「冬季単独」とか「無酸素」とか「〇〇ルート」とかいう枕詞を付けるのは
誰もまだ達成していない未踏の挑戦をするためです。

未踏という事は、危険だから困難、という事がほとんどでしょう。

危険だから止める、のではなく、危険だから挑戦する価値がある
という発想なのでしょう。
しかし、
僕は、「生きる意味」とか、「自分は何者か」とか、考えたことないたちでして・・・。
というか、そういうことを考えるのは
結局、人間特有の、贅沢な、エゴだと思ってしまうところがあるんです。
ただ死にたくないから生きてるだけでいいじゃないか・・・と。
動物はみんなそうでしょ?
なんか宇宙旅行(開発)にも似ている気がするんですが
宇宙開発も巨峰への挑戦も
───神々の領域を人間のエゴで汚している──
ような気がしてしまうんです。

しかしまあ
そういう挑戦によって今の文明社会は成り立っているわけだし、僕もその恩恵を受けているわけですから、そういう人たち(未踏への挑戦をしようとする人)を批判する気はありません。
むしろ、感謝と尊敬の思いはあります。
ただ、どこか他人事のように「自分には真似できないけどね」
と思ってしまう節はあるのですよ。

本作品で示されている「なぜ山に登るのか」に対する答えはまたちょっと違うのですが、
今までにない切り口で、なるほどそうくるかという驚きはありました。
山岳小説好きの人はもちろん、生きる意味とは何かと思い悩んでいる人も、一読の価値はあると思います。

この作品で付箋を貼った個所

「いま生きている自分のことだけを考えると大事なものを見失う。どんなことを決めるにも6世代先の人々の幸福を考えるべきだ。それがインディアンの知恵だとワイズマンは言っています」
「ずいぶん先の話だな」
「そうです。でもそう考えると、心が自由になる気がしませんか」
「孫やひ孫の世代までだとまだエゴが働く余地がある。でも6世代先の事なら自分の損得と切り離して考えられる。エゴに縛られることなく、いまを生きている自分に意味を与えられる」

(2017年11月より修正引っ越し記事です)

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