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世界には間に立つ存在が必要だ-yadorigi創業エントリ-

そろそろyadorigiというサービスをリリースする。所信表明を兼ねてまた長めのnoteを書いてしもーた。

◯yadorigiが必要だったとき

行列のできる法律相談所という番組のことを、なぜか小学生の頃好きだった。
当時の司会者の詐欺師も裸足で逃げ出すような圧巻の話術とブラウン管の向こう側にいる我々だけでなく現場にいるひな壇のゲスト陣すら退屈させないファシリテーションスキルの高さには度肝を抜かれる。

当時のぼくは他所の家庭を覗き見して異世界を体験しているような気分で次はどんな事例が紹介されるのか!と、ワクワクをあらわに食い入るように見ていた。
テレビの前にへばりついていた少年の中にあったのは、自分の家族は大丈夫だと、カタチを変えないものだという確信にも似た根拠のない想い。
一番多く議題に上がっていた“離婚”なんてものは全く以って他人事であると信じていたが故の娯楽だった。

ある日、
「ここに病院が立つんだ!」
と更地に車を止めて降り立った父は目を輝かせてぼくに言った。
10歳そこらだったぼくは、なんだか凄いことが起きそうだという予感に心躍らせた。


それから10年くらいは、我が家には混沌と戦争の二文字がずっと駆け回っていた。


10年の間に起こったことはよく覚えている。
父が母に放ったことば、母が父に食らわせたカウンターパンチ。その逆。
母がぼくに言ったこと、父がぼくに向けたもの。
妹のノートに書かれた「家族から逃げたい」という幼い鉛筆の跡。

ぜんぶ、覚えている。

起こった出来事を端的にここから伝えようと一度がっつり書いて、実は消した。
10年分の文字の数は1678文字。意外や意外。そんなものか。
だが具体的な出来事を蒸し返すのは、父も母ももし読んだら傷つくだろーなと思ったので消した。
そのくらい二人の中にまだ癒えないものがあるって、昔の話をしてる時の表情を見たら嫌でもわかる。

得るものもあった。書く過程の中では被害者としてのぼくにも気づけたのだ。
昔から身の上話をすることに抵抗があったのは、過去の話をするたびに両親を加害者に仕立て上げているような気になっていたから。
だって、ぼくはあいつらが悪いと思っていたのである。
そういう風に思う自分に蓋をして遠ざけていた分、そんな自分がいるんだと認め向き合うのは骨が折れる時間でもあった。
やあやあと昔からの友人のように肩を回しあって再会といった感じではなく、「最近そちらはどんな感じですか?」と距離を縮めて対話をくり返した感じ。

ほんで、どんな10年やったんや!?という方には「ゴジラVSキングコング」の間に10年ずっと立ってた感じというのがイメージしていただけるやも。
二体を一番身近で見守ったり間に入ったり破壊光線がこっちに向いたり。

二体とも、
ずっと“自分は悪くない”の一点張りだった。わからんちん同士でパートナーシップを組んだのだから当然か。

当人同士ではガチンコの殺し合いになってしまって会話をするにも誰かを間に挟まないといけない状況であった。
父は爆発し母も爆発し親族やら友人やら弁護士やら近所の人やら色んな人を巻き込み続けて事態を目まぐるしく悪化させた。

その渦中に巻き込まれた一人であるご近所さんが学校帰りのぼくを捕まえてこう言葉を零したことがある。

「お父さんとお母さんの話、どっちを信じればいいか分からない」

そりゃそうだと得心し、どっちの言うことも真に受けないでくださいと伝えたと記憶している。

10年の間で事態を解決させるために間に入ってくれた人達は、どちらかの言うことを真に受けてどちらかの側について、さいごはみんなどこかにいってしまった。

離婚とは無縁だと思っていた少年から、早く離婚してくれとすら思うようになったぼくは自分の家族の業の深さに茫然自失であった。

そんな10年。

ちなむと、母がゴジラで父がキングコングである。
ハリウッドが実写化したものが来年には公開される。小栗旬さんも出るよ。映画館で鑑賞されたし。


聞けば妹は我が家の戦時中のことを「憶えていない」と、言う。
幼少期故に記憶が混乱しているか、思い出したくないという彼女の内なる叫びに海馬が気圧されているかのどちらかだと思っている。
推量の域を出ないが恐らくは後者であろう思っているので、
兄としてはいつか妹に、やれクソ兄貴!貴様のせいで!死ね!死ね!!死ね!!!とタコ殴りに当たり散らかされるのを心待ちにしている。
ぼくは妹を無力な存在とみなし疎んじ遠ざけた時期があるという自覚が明瞭にある。
彼女の中にある痛みを昇華できるのであれば喜んでその矛先になろうという純然たる覚悟は、自分の中にある痛みを自覚した時に刻んだものだ。
なんともまぁ格好良く聞こえるが、本音を言えばそうなればぼくの中に巣食う彼女への罪悪感もその風貌を変えるのではないかという手前勝手な思惑もなきにしもあらず。
我が身可愛い兄で御免よ、妹よ。


◯yadorigiができるまで


幾分ハードボイルドな思春期を過ごしたので、家族とかパートナーシップとか引っくるめて人との関係性といったのものへの抗いがたい課題感と関心はずっとあった。
人間同士はさいごには分かり合えないものだという絶望は忠実にぼくに常に付き纏いやがる。
その一方で、人間を愛したいという想いがあるという矛盾も自覚はしていた。

時間を置いて場所を変えて人を変えて、度々その矛盾はぼくに何かを問いかけてきた。

NVCを学んでみるといいかもしれない」

シアトルにてプロジェクトチーム内の衝突で辟易していたぼくに、在米日本人のメンターが教えてくれたNVCというものが最初の前兆。

Nonviolent Communicationの略であり、1970年代に、アメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ローゼンバーグ博士によって体系化され、提唱された、自分の内と外に平和をつくるプロセスのことだ。ご参照あれ。

非暴力コミニケーションという名称を見た瞬間に思い浮かんだのは父と母の顔。
彼奴等はどちゃくそ暴力コミニケーションだったなぁなんて逡巡しながらも、果たしてそのNVCとやらはどれほどのものじゃいという皮肉な思いも過ったのは認める。

が、幸いにもその凄さをすぐに目の当たりにすることができた。
NVCを実践しているというメンターは、その術を加減無く発揮してぼくらチームの争いを沈静化していった。
元を正せば、”誰かのために”とか”皆んなで”とかっていう綺麗事に包んで本音を誰も言わなかったから可笑しなことになっただけの話であった。しょーもない。
しかし、実際に目の前で起きることを見ていたぼくは痺れた。
平和になった、と思ったのだ。
そのチームメンバーと関係を絶ち切らずに、今もそれなりの縁が続いているのはあの時メンターをしてくれた彼女の手腕のお陰だ。

一方で、また殊更に深い問いに落とされもした。
平和を体験するには争いが必要である。
では、その争いは人間の何がもたらしているのか。

そんな問いに方程式を与えてくれたのがメンタルモデルというものだ。

“学習する組織”の中にあったメンタルモデルという概念を、yadorigiのパートナーである由佐美加子さんが1000人以上とのセッションを通して体系化し実践にまで落とし込み、人間の中に根ざしている信念を見出した。

人間は幼少期にこの世界にあるはずだという願いを欠損させられるという体験をしている。
それがすなわち”痛み”の根源となり人生はその痛みの回避行動で埋め尽くされてしまう。
痛みの種類にもパターンがあり、行動や特性、世界の見方には共通項があり4つの類型にも
分けられるというのがメンタルモデルの考え方だ。ご参照されたし。

内にある痛みを分離をさせていたことが批判や暴力、攻撃となって外側に放出されたのが争いの元。
攻撃することでしか報われないほどの深い痛みを抱えて生きている人もいるし、それを受けて傷つくも当然いる。
傷つけた側も傷つけたことによって傷つくというこれまた不本意な現象が訪れるという負のスパイラル。
だからいい加減に、痛みは分離するのではなく統合することが必要ってこと。

自己を理解していくことの素晴らしいところは、自分の痛みを扱えるようになると他者の痛みに対しても共感の幅を拡げることができることだ。
ぼく自身、メンタルモデルを通した自己理解の過程で父の中には傷ついた男性性を視ることができた。
しきりに「俺を立てろ!」と言っていた彼には離島で次男として生まれて自分を見て欲しい時に見てもらなかったという痛みがあった。男としてとか、長男を優先とかそういうしきたりとやらに彼は傷ついていたはずだ。
母の中には押さえ込まれた女性性を視ることができた。
「私のやっていたことは間違っていない!」と周囲に証明を求め続けた彼女の中には、長女として生まれやりたいことを何一つさせてもらえなかった痛みがあった。常に勝負をして自分を証明しないといけない環境で、お洒落とかそういう女性としての美しさを輝かせる機会を奪われていた。

根っこにある声は非常にシンプルで父は「自分をみて欲しい」というものがあり、母は「あるがまま自由に好きにやらせて欲しい」というのがあったんじゃないかと思っている。

たったそれだけのことを伝えるために互いに力を合わせてやりあったのは、星の数ほどの正当化とマーライオンばりに垂れ流される罵り合い。
父は散々母をないがしろにしたし、母は父の話を聴かずに”家族のため"という武器で追いやった。
そして、ぼくはそんな二人を傍観し、到頭自分自身の感情を切り離した。

悔いている、色んなことがある。

とゆーわけで、
もし”今”ふたりの間に立てていたならという後悔と願い、社会に出てみての息苦しさとかがなんやかんやガッチャンコしてyadorigiは始まった。


◯yadorigiの目指していること


「男性性を癒し、女性性を解放する」
これがyadorigiの密かなミッションである。

人間の最も理想的な状態は、自分の中にあるエネルギーを自在に使えるようになることだ。
人間の中には男性性と女性性という二つのエネルギーが存在している。
よく言われるのは、男性性とは論理的で女性性とは感情的な性質であるというもの。
外向きのエネルギーが男性性だから仕事を外でするのは男。
女性性は内を守るエネルギーで家のことを守るのが女。
あとは、男は男らしく、女は女子力をとか。なんか、固まっちゃったそーゆーの。

ぼくは男性であるが、比較的女性性が強い方だと思う。
実家に帰ると母が料理を作ってくれてる間にドカッと居間で待つのが苦手だったりする。
そーゆー時、自分が男であることにあぐらをかいているような気分に襲われるのだ。
だから、母が料理を出してくれた時に「あ、ごめん。ありがと」とお礼より謝罪が先に出てきてしまう。せっせと実家のトイレを掃除してたりする時の方が落ち着く。
ヒゲもあんまり生えてこないし、竹野内豊さんみたいにはなれそうもない。
まあそれはいい。

一方で、紛うことなき男であるなぁと自分の性を再認識させられる瞬間もある。
この前も同世代の仲良しグループで飲んでいた時に、友人(男子)が彼女にそろそろ結婚をばと迫られているという悩みなのか惚気なのかを吐露した。
すると、もうすぐ結婚する友人(女子)が「情けない。呆れてものも言えへんわ」と一刀両断にした。
シュンとする友人(男子)を見て庇いたくなる気持ちと一緒に湧いてきた言葉は、”男の辛さもわかっておくれ、とほほ”であった。
結局、「きちんと彼女とは対話すべし。既成事実は作られぬように避妊は抜かりなくせよ」という結論と共にビシリと指差され、友人(男子)はコクリと頷いた。
帰り際に、友人(女子)が吐き捨てた
「適齢期の女のしたたかさ舐めたらあかんで」
という台詞には、あの会の男子諸君全員がゴクリと生唾を飲んだのは記憶に新しい。

ああ何たる。。。
一体何の勝負をしてるのかという悲しい気持ち。
パートナシップとはこんな小競り合いから生まれるものなのか。
確かに、Google先生が用意した解答欄に「離婚スペース男スペース」と入れたら、不利とか悲惨とかを解の候補として挙げてくる時代である。
男が身を固めるという表現があるが、固めることに対する恐れもあるよなぁと思うのだ。

しかしながら、なんか。なんというか。かなしい。

こういった一場面は、この社会で”男性”として生きること、”女性”として生きることで背負わされる構造が生んだ問題の末端なのではないかと思う。
ぼくは”男性”であるのでマジョリティの男性視点の話になってしまったが、マイノリティと位置付けられる”女性”の苦しみはまたさらに深いはずだ。
LGBTQの方達のパートナーシップにも注目が集まる時代にシステムが最早追いついていないのは周知の事実だろう。

時代に合わないシステムは”男性”と”女性”という役割を未だに固定している。
凝り固まったシステムは人々のカチンコチンの固定観念を育み、それは社会の声となったりする。

“〜した方がよい”
”〜すべきだ”
”〜しなければならない”

そういった外側の声が正解だと思い込み、自分の中にある心の声に耳を塞いでしまう人も多いように思う。
役割が固定されてしまうと気づかぬうちに人の中にあるエネルギーも固定されて行き場を失う
システムが追いついていないことからくる生き苦しさは、パートナーシップ間での息苦しさをも生んでいる。
仕事でも家でも「こうすべきなのでは?十分じゃないのでは?」という顔の見えない声が囁いてくるような気がすると、母として3歳の子供を育てながら仕事にも勤しむ友人が言っていた。
焦りや不安を旦那にぶつけてしまうこともあって苦しいと零す彼女の表情は、いつぞやのぼくの母の表情とダブって見えた。


そろそろ、
試し合ったり息苦しかったり、そんなカタチのパートナーシップは終わらせないといけない。


そんなことをモヤモヤ考えながら滞在していた先日の遠野という地にて、
シャーマンみたいな人が教えてくれたケルト神話における男性性の例えにとても心惹かれた。

「女性とうまく踊れない男に銃を持たせてはいけない」

言い当て妙だと思う。格言すぎる。
しなやかさ、優しさを培ってこそという男性のあり方の大切さが濃縮されている。慄く。

しかしながら、女性性とはなんぞという問いに対する答えはケルト神話は用意していなかった。

「巷を練り歩く女子力とやらに中指を立てられてこそ貞操な淑女である」

ぼくは女性性をこんな風に認識している。最も身近な女性である母が豪傑な御方だったもので。
ちょっと例えとして穿ちすぎると思うが、しっくりくる女性性が調べてもでてこなかったし。誰か教えてほし。

僭越ながら、女子力とやらを身につけて誰かに大切にしてもらわないと自分に自信がないとかいう女性には待ったをかけさせていただきたい。
女子力なんぞ身につけなくとも、本来ある女性性の力強さや情熱の力、胆力、気高さはすごい。
少なくともぼくは、リーダーシップというものを男性からではなく女性から学ぶことの方が多かった。

繰り返すが人の中には、程度の差はあれど男性性も女性性もある。
どちらかに寄せようとしたり縛られる必要はなく、柔軟に使いこなしていくことできるはずだ。
さすれば、社会でも家庭でも役割を演じる必要もなく在るが儘に生きていくことができるのではないか。
内にあるエネルギー(男性性と女性性)、どちらにも繋がれて初めて自分とのパートナーシップが組めたと言えるんじゃないか。

そういった人を増やし、取引的な経験を限定させる愛ではなく、互いの体験を拡大させる愛のある豊かなパートナーシップを創り出すのがyadorigiの使命である。

そのためにyadorigiでは、固まったシステムが生んだ外側の声ではなくその人の内で叫びたがっている声を一緒に聴いていく。

対話によって内面を紐解き、凝り固まったエネルギーを癒して眠っていた力を解放させるのだ。


◯ yadorigiでやること

詳細はリリースされるLPに譲りたいのだが、ほんで何やるねん!?という気の長くない方向けにのらりくらり。

ぼくはこれでも一応ベトナムで事業を立ち上げたり、中国でスタートアップやったりとそれなりに研鑽は積んできた身である。
提供価値はわかりやすく!一文で!と口を酸っぱくして言われたり言ってきたにも関わらず、yadorigiの提供価値はわかりやすくできなくて困っている。お恥ずかしい。

NVCとメンタルモデルをベースとしたyadorigiのセッションは、対話を通じて内面を紐解いて”気づき”を提供するものだ。

自己分析に使用する心理学モデルのジョハリの窓で言うと、yadorigiは右下に該当する自分も他人も気づいていない「未知の窓」を既知にしていく感じ。

人によって紐解かれる感覚は違うようで、

「丸裸にされていく」
「今まで使っていた世界に対する見方のレンズを取り替えられた」
「ずっと忘れていたことをやっと思い出せたって感じ」

とかそんな感じでぽやーんとしているので、また難し。
カウンセリングでもコーチングでもないし。
もうリリースされるのに未だにデザイナーと一緒にうにゃうにゃ頭を悩ませている。
なんかないか、なんかないんかと。
メルカリみたいに「捨てるものをお金に変える」みたいなスカッとしたものにしたかったのに。悔しい。

うん。でも、いいサービスです。

自分自身とのつながりを深めたい方には、yadorigiが伴走します。
パートナーとの関係性を省みたい方には、yadorigiがふたりの間に立ちます。

リリースを楽しみにしていてください。

この御恩は100万回生まれ変わっても忘れません。たぶん。