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西尾幹二『日本と西欧の五〇〇年史』を読む③日本とはケタが違う西欧の「暴力」に注目

前回、前々回からの続きです。西欧を読み解く本書の観点である「暴力」について、私は日本と異なる西欧での「暴力の身近さ」を改めて痛感しました。他の著作でも知ってはいましたが、西尾先生のこの五百年の叙述で改めて再認識したところです。

本書が取り上げる「暴力」の視点は日本で盲点になっていると感じたのもあり、本書の内容とは少し離れる形でいくつか挙げてみたいと思います。本書では五百年史を論じているように思うかもしれません。しかし同時に現在進行形の事象でもあります。剥き出しの「暴力」から目を逸らせてはいられない現実と向き合う上で、重要な点です。

「戦争観」以前に「暴力観」が日本は特異

日本人の「戦争観」は世界から見ると特異であることは論を俟たないでしょう。最近も、ウクライナでの戦争でウクライナに降伏勧奨論が飛び出て話題になり、非常に驚きました。

しかし、これは冷戦期にあった「降伏論」のリバイバルかもしれません。1979年に『文藝春秋』での「新『新軍備計画』」で経済学者の森嶋通夫は「侵入者は白旗と赤旗で迎えればよい」が当時は話題になったようです。話し合いで解決できるという前提そのものが日本の特有の発想なのは間違いないでしょう。

ついでに、おかしな降伏論をきっかけに色々読んでみたら、戦後の日本の知識人のお花畑の平和論は、敗戦の衝撃と厭戦感はあるとしても、この珍妙な錯覚の根本がどこから来るのか興味深いところです。一方でこれと戦っていた福田恒存の常識的な議論は、拍子抜けするほど普通のことしか書かれておらず、非常に驚きました。それだけお花畑な議論が主流だったのかもしれません。それにしても、社会科学の学者より劇作家・英文学者・シェークスピア翻訳者のほうが、遥かにリアルな国際政治観をもっているのが興味深いところです。この「社会科学」については本書を読んで感じたことも多いので別稿を準備したいところです。

さて。「暴力」に戻ります。戦後の米国の宣伝戦(プロパガンダ)の影響もあると思いますが、降伏後の暴力を全く想像しない、できない、そして「させられなかった」日本の知的風土で良いのか考えさせられます。

一方でこの「お花畑の平和論」の淵源は単に敗戦の衝撃や戦後の憲法だけとも思えないのは、江戸の平和(Pax Tokugawana)の存在も大きいと感じました。考えてみれば、日本では秀吉の惣無事令、元和偃武以降は、西欧に比べると「剥き出しの暴力」の経験がほとんど無く済みました。

「軍事を否定すれば暴力が無くなる」という日本的なお花畑の勘違いは、西欧と比べると、日本には歴史的にもそもそも暴力が少なかったことが要因で、本書で繰り返し語られる西欧の暴力についてはその意味でも重要だと思います。

なお、本書の参考文献で名前も挙がっていますが、鯖田豊之氏の著作はこの点に関して以前に読んで参考になり有用でした。

他にも有名なT・ホッブスのstate of natureには「自然状態」というそのままの訳が充てられています。これでは訳語の語感に引きずられて学生も理解できないのも無理はないでしょう。「殺し合い毎日状態」と言うのが、日本での妥当な訳語と思います。ついでに、本書で西尾先生の手により日本でのT・ホッブスの可笑しな解説本も痛快なまでに斬られています。

権力の裏付けとなるのは結局は(最終的には)暴力です。当然のことですが、一般マスコミで言うと間違いなく忌避されるでしょう。本書では踏み込んで「暴力」としています。この「暴力観」の把握がないとやはり西欧発祥の制度や思想の基盤は理解できない、と改めて感じます。さらに。政治思想史や法制史の先生方が、この前提を全部すっ飛ばして、いきなり西欧に寄り添う形で議論の紹介から始めるから日本でのおかしな勘違いが収まらない要因ではないかと私は見立てています。

本書は中世を取り上げていますが、問題提起は当然ですが現代の私たちに向けられています。私が感じたいくつかの点です。

「人間の安全保障」は暴力の蔓延の中世を想起すべきではないのか

「人間の安全保障」が政府の(外務省の)外交の主要な柱とされています。外務省にこんなページがあります。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/kadai/hs.html

問1.日本政府が、外交の主要な柱として位置づけている「人間の安全保障」とはどのような概念なのですか。
 21世紀を迎え、グローバル化が進行する中で、国内紛争の国際化、感染症の拡大、難民問題、突然の経済危機、貧困問題の深刻化等、人々を脅かす脅威も相互に関連する形で多様化しています。このような状況においては、国家がその国境と国民を守るという「国家の安全保障」の考え方だけでは対応できない脅威の事例が顕著になってきました。
人間の安全保障は、国家の安全保障を補完する概念であり、人間一人ひとりに着目し、人々が恐怖と欠乏から解放され、尊厳ある生命を全うできるような社会づくりを目的とするものです。

外務省ホームページ

私はリベラルを僭称する連中の臭いを嗅ぎつけました。いかにも安全保障や軍事を嫌う人が、西欧で提唱された議論を出羽守が訳した綺麗な作文の典型例だと思います。

しかし、逆に一方で、この「人間の安全保障」で本来問題視している内容は、本書が指摘している内容の「中世の西欧」の状況そのものだ感じました。そして西欧での議論は凄惨な中世の経験を踏まえており、軍事とも向き合う西欧だから提唱されるのであって、日本の九条信者どもが飛びつくのは文脈が全く違うと思いました。

現在のパレスチナの状況を見てみましょう。「ハマス」は国家ではありません。軍隊でもありません。武装集団です。ハマスの行為は中世の暴力蔓延を想起するものです。「軍隊」を否定したところで暴力はなくなりません。「人間の安全保障」が本来必要とされる状況はこういうことだと感じました。なお、私はイスラエル支持と言うわけではありませんが、イスラエルの言い分もあるのに、日本のメディアが妙に反イスラエル寄りになりすぎていないか気にはなります。あまりの残虐さで報道自粛なら本末転倒も甚だしいでしょう。

ヘイトスピーチはもともと暴力の手前で収めるためではないのか

いわゆるヘイトスピーチ規制も、西欧から始まり、近年には日本にも「輸入」されました。例によって出羽守の活躍も。

しかし、法務省のページを読んみても、西欧でヘイトスピーチを規制に至った背景などは一切読み解けません。それ仕事じゃないからと言ってしまえばそれまでですが、お役所仕事の臭いがプンプンします。また権力で人間の意識を差配できると言う、この役所特有の愚民観も見逃せません。

 ヘイトスピーチは、人々に不安感や嫌悪感を与えるだけでなく、人としての尊厳を傷つけたり、差別意識を生じさせることになりかねません。

法務省のヘイトスピーチの説明

重要なのは「不安感」や「嫌悪感」「差別意識」なのではない点をなぜ書かないのか。西欧で見られる、民族憎悪の激しさや暴動は日本のメディアが何か規制しているかのように報道しないこともあって、本来のヘイトスピーチ規制の意義が見落とされていると思います。

なぜ西欧でヘイトスピーチ規制か。西欧で暴力沙汰が身近にあるからです。歴史的にも暴力の経験は日本と比べてケタが違います。本書読んで下さい。

ヘイトスピーチから暴力の応酬が際限なくなります。暴力の応酬で収拾つかなくなる前に、ヘイトスピーチをまずやめろ、と言う西欧での暴力の身近さが前提にあります。実際これが功を奏しているか等の議論はあってもよいようには思いますが、そもそもの出発点は治安当局も対応しきれなくなるほどの暴力の応酬の事前回避です。そういえばケルン暴力事件も日本のメディアはほとんど報じませんでした。

日本の事情とだいぶ違うように思います。日本でヘイトスピーチから実際に際限ない暴力の応酬に発展したのは現時点ではほとんど聞きません。(念のため。ヘイトスピーチ規制の意義自体は否定しないどころか必要と思います。)これから起きるのかもしれません。しかし、ヘイトスピーチ規制が本来目的としているのは凄まじい暴力の応酬を事前に抑制する点を日本での議論では見落とされているのが非常に気になります

日本の漫画・アニメの暴力シーン批判は、西欧で暴力が身近で深刻であることの裏返し

さらに「暴力」に関して。例えば西欧などで日本の漫画やアニメの暴力シーンが批判されることがあります。尻馬に乗る出羽守様や「国連のから来た」人が叱る毎度お馴染みの風景です。

ギロチンを発明した国にガタガタ言われたくない、銃野放しで漫画規制かよ、と嗤う人もいるかもしれません。しかし、日本と異なり、「暴力」がレベルが違うほど身近であることを見逃していては理解できないところと思います。

しかし、本書でも描かれている西欧の中世のえげつないまでの暴力。彼らの暴力観の根底。暴力をめぐって西欧の全体像を捉える必要があるのを本書を読んで再認識したところです。

「交易と暴力」の関係も注目点で日本独特の盲点があり、書きたいところですが、いったん置いて次回は、「科学」に関連して感じたことを書いてみようと思います。




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