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岡崎から視る「どうする家康」#18結束団結の犠牲者・信康

前稿の続きです。

事件の真相は諸説ある

信康事件の真相は諸説あります。「岡崎から視て」整理して考えてみましょう。

①信長の強要説

これは「徳川史観」で『三河物語』などがこの線です。これが従来の基本にあります。山岡荘八『徳川家康』は武田内通説含めおおかたこの見方です。

しかし、丹念に読むと「信康を処断したという結果」を信長には伝達はしていますが、これをもって原因とは言い難いというところではないでしょうか。ただ、今回のドラマで岡田准一さん演じる信長の不敵な笑みが「この説で行くのかな」と予感はさせます。

足利義昭による密書乱発の「信長包囲網」で、家康の裏切りに信長が疑心暗鬼になってもおかしくありません。妹の夫浅井長政も実際裏切ってますこの中で何らかの疑いの目で見たくなる信長の都合は理解はできます

信長包囲網。家康の離反に成功してたらすごいことになってた

五徳と不仲説は、五徳のポジション(信長の上から目線)に反感を持つ岡崎のシンボルが信康だったのは要因にはあるとは考えられます。


②祖母伝通院お大と久松水野との不仲説

『家忠日記』での記述の欠損部分からの類推と、傳役平岩親吉が伝通院の兄水野信元を大樹寺に誘い出しての殺害事件があったこととの類推の説です。当時の岡崎でトラブルは事実のようです。家康母方親族の存在感は意外に大きいのと、扱いに難しい面があります。

今で言ったら刈谷市長が岡崎市役所にアレコレ口出してくるようなものです。岡崎のメンバーがいい顔するはずありません。

しかし、これを信康事件の直接の原因とするには無理があります。仮にそうなら親吉と久松双方の後の栄転が説明つかない。ただ水野信元殺害事件でも織田との関係が影を落としているのは注目点ではあります。もともと織田との仲介者が水野だったが、仲介役の存在が邪魔になったのはあり得ます。また信康の代になると伝通院久松水野のポジションが相対的に低下するので何らかのアクションはあった可能性はあると思います。

③武田に内通した説

武田内通の話はよく出ています。当然ですが証拠も何もなく、信康本人も絶対ないと言っているだけに、これは同意しかねます。何より「岡崎から視る」ので本人の弁を尊重したいところです。

しかし、ここから重要ですが、信康とその周囲が織田を快く思ってないところに、さらに武田と戦争回避の融和的発言をしていた可能性はあります。何より母の築山殿は織田を全く受け入れない女性と言う影響もあります。そこに、信長包囲網の中で同盟に懐疑的な雰囲気が岡崎に無いはずありません

ちょうど現在の自民党内の「日中友好重視派」が「日米同盟『だけでいいのか』発言」を考えると実態に近いかもしれません。

内通でも何でもないのに懐疑的な発言だけで感情的な反発や「内通者」のレッテル張りを産むケース、と考えると現在もあり、遠い昔の話ではない気もします。

④根拠地岡崎の後方支援組と浜松の前線活躍組の対立

この説は最近よく指摘されています。武田との戦いで戦功をあげ、評価される人います。浜松の中途採用組も活躍しています。根拠地岡崎は後方支援で評価が相対的に低くなります。毎熊克哉さん演じる「大岡弥四郎」がちょうどそのポジション。

今の企業で想像しましょう。相対的に評価が下がる部署の不満が派閥抗争になることはよくあります。企業で働いていると、こうした要因は切実に感じます。例えばメーカーだと営業が仕事取ってきて成果上げますが、無茶な納期で生産管理が振り回されたり、品質管理や生産現場にも無茶な要求出たり。だからこそサラリーマンの共感場面をドラマに投影した方が視聴率的にはウケるはずだけどね。

「オレ評価低いけど信康様からは頑張れって言われた。浜松の父にオレからも文句言う、と力強く言われた。」こんなノリで信康がこの派閥抗争で、岡崎の不満の「お神輿」になっていくのが想像できます。社内の派閥抗争で「現社長と次期社長」が絡むとかなり厄介です。企業人からするとこの説は実にリアルに感じます。

⑤急成長急拡大する中で複数拠点の組織運営につまづいた

そもそも岡崎と浜松2つメインの拠点あれば派閥できるのは普通です。今の大企業でも同じです。この時は松平氏始まって以来の岡崎浜松の2拠点(豊橋含めると3拠点)体制です。中小企業から大企業に脱皮する中で複数拠点の組織運営につまづいたと言う面はあると思います。ここに有力な親会社のポジションの織田の影響力を勘案すると、これもサラリーマンからすると「あるある」感満載です。

ちなみに自民党は派閥大好きで、派閥の存在を前提に運営しています。

共産党は派閥・分派活動徹底否定しています。日本人的にどちらが親近感あるでしょうか。派閥前提にして上手くやるほうが自然と言えば自然です。ただ、共産党の「粛清」ではないですが、犠牲になった信康もそうした観点で分派活動の犠牲者と見ることもできます。

逆に言うと信康の処断で派閥ができる「温床」を潰したとも言えます。

⑥生え抜き古参メンバーと中途採用新規参入組対立

また急拡大する企業が中途採用して実力発揮しても、生え抜きの古参メンバーが不満を持つことはよくあります。信長は実力主義で中途採用(光秀)やノンキャリ(秀吉)を重用し、古参メンバーは補欠扱いみたいなもので方針は明確です。もっとも、それが最期に仇になったわけですが。

家康は古参生え抜きの岡崎メンバー(酒井・本多・榊原・鳥居・平岩・夏目など)と浜松中途採用組(井伊)のバランスに苦慮したように見られます。

古参生え抜きは祖父清康やそれ以前からのメンバーで苦楽を共にしてきただけに「オレにも言わせろ」感あります。しかし古参生え抜きメンバーだけでは拡大する領地を統治経営できません。西三河の中小企業から三河全域、浜松含めた大企業になれば、人材も集まってきます。

ここで古参の岡崎メンバーも不満も出ないはずもありません。この両者の対立を「信康の犠牲」で潰したことが、天下人として人事システムを動かせるモデルになったという面は見逃せないポイントだと私は思います。

『柳営秘鑑』古参メンバーを納得させ文句言わせないため

ちなみに生え抜き古参メンバーは江戸時代の『柳営秘鑑』では「安祥譜代」「岡崎譜代」「駿河譜代」と区分されています。要するに古参メンバーからグジグジ不満出るので「大切に処遇してるからな!」と怒鳴るための本です。

⑦三河一向一揆の「後処理」に家康は力入れてないのでは?

三河一向一揆については「もとの野原にする」話はドラマでも出ました。

しかし、その後のフォローについて歴史書としては書きにくい面を無視できません。一向一揆参加組が離反した後に帰参したときの処遇が課題になります。「あいつ一揆に参加したのにオレより待遇いいの納得できん」言いだすメンバーとの調整がポイントになります。

家康自身は浜松異動で三河一向一揆後のフォローに関心を持とうとしていないように見えます。一方で武田と抗争が始まるのに、三河一向一揆が依然として燻っていて根拠地として後方支援に不安が出るようでは困ります。この「調整」に石川数正らがあたっていますが、ここに不満が集まらないはずありません。

実際、久松長家も隠居後は浄土真宗の寺院復興にも尽力していることは見逃せない点です。こうした点で家康自身が西三河の政治課題、経営課題から遠ざかっていたことは当時の岡崎として不満が渦巻いていたとも考えられます。歴史書的には都合悪いので書けないだけではないでしょうか。

⑧父子対立は戦国時代は珍しくないし、どこでもある

今回の時代考証は武田専門家の平山優氏ですが、武田信玄は父信虎を追放し、息子義信も処断しています。父子対立は戦国時代は普通にあります。

家康と信康は当時の早婚の関係で17歳しか年が離れていません状況によっては、家臣団が信康を担ぐ可能性は十分にある土壌があります。ここは軽視できません。脚本と時代考証の平山氏、従来の「徳川史観」で信康はどう描かれるのでしょうか。

信康は家臣団分裂を防ぐ「結束のための犠牲者」

以上に書いた事情等が原因には挙げられますが、これが真相とかではなく、複合的に影響を及ぼしているように思います。最後の決定打は、家臣団の分裂・派閥抗争を防ぐために、派閥の「神輿」になるリスクの高い信康をやむなく処断した、というところです。

特に三河一向一揆で家臣団分裂で懲りたことが大きく、家康としてはトラウマになっていたのではないかと私は見ています。

言い換えると「信康の犠牲」があってこそ、天下を取る上での結束ができたということです。だからこそ「岡崎から視る」と若宮八幡宮の寂し気なたたずまいが、残念に思えてきます

駐車場は3台分しかありません。御朱印は岡崎天満宮で受付されています。ドラマで涙するシーンがあると思います。ぜひお参りにお越し下さい。


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