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岡崎から視る「どうする家康」#9三河一向一揆を乗り切る

家康の青年期の永禄6年から7年にかけて西三河で三河で一向一揆がおきています。岡崎7年間での最大の危機です。江戸幕府の歴史書はこの点を奥歯にものが挟まったような記述ですが、実態はかなり緊迫した場面です。
(東三河は曹洞宗が強いので西三河限定とした方が正確)

もともと家康は軍事能力高いわけではなく、忠誠心が強い軍団の支えでなんとか切り抜けた面が強いですが、家臣団が一丸で事に当たれなくなると急に家康の限界が露わになります。その最たるものがこの三河一向一揆との抗争です。

家康が一揆勢の動きや拠点にあちこちと振り回され、鎮圧におよそ半年以上もかかっています。一揆側も勢力の糾合ができていませんが、散発的に戦いが続くので、家康も一揆勢を各個撃破しきれずに、持久戦を強いられた感じです。

しかも、家臣団や領民でその後の両国の「経営」にもかかわってくるので無茶な「なで斬り」もできません。だったら、きっかけの「非課税問題」やめとけよ、と言うのもまた違うのが苦しいところですが、家臣団の分裂の苦悩が、その後の信康事件にも影響を及ぼしているように思います。

一向一揆を読み解き方

さらに厄介なことに、一向宗でもない吉良氏や桜井松平、大草松平氏まで、チャンスとばかりに加勢して、規模が大きくなった面があります。

必ずしも宗教信仰だけではなく、政治的正統性や社会経済面(要するに利権)が宗教戦争を大きくした例は西欧史にもあります(30年戦争)。いわゆる「政教分離」が西欧史のポイントでもあるのですが、同様にほぼ同じ時期に日本でも一向一揆が起き、これを世俗権力(家康)が収拾にあたった事例です。

この経験が幕府の寺社対策・宗教政策に影響していて重要、というのが私の見立てです。

日本は江戸時代に刀狩りや檀家制度などで「牙を抜いた」仏教になり、宗教勢力の武装解除に成功した250年だっただけに、西欧史での「宗教戦争」がなかなか理解難しい面があります。また、昨今の騒ぎでも「宗教」は触りにくいものになっています。

世界的にみると、西欧での1648年のウェストファリアの平和 (Pax Westphalica)と日本の1615年の「元和偃武」徳川の平和(Pax Tokugawana)はほぼ同時期でもあることに注目しています。

岡崎の7年間での最大の危機の中で「信仰」を理由に家臣たちが離反し、去っていく姿に苦悩する青年家康の風景はドラマとしては格好の場面です。その後の帰参(出戻り)のありようや、その後もドラマ的に泣かせる場面には事欠きません

NHKとしても、浄土真宗(一向宗)は現在でも多数の信者がいるだけにドラマでは配慮も必要です。浄土真宗を悪役とするわけにもいかないので、描き方が難しくなるようには思います。

今回のドラマでは一向一揆側の僧侶・空誓上人を市川右團次さんが演じます。空誓は蓮如の曾孫でもあります。HPの配役プロフィール欄をみると宗教の側面を「薄めて」います難しい面なのでNHK流の「流し打ち」のうまさを感じます。

戦乱は大きい、一揆の規模ではない


拠点となったのは安城市の本證寺です。地域に「寺領町」などの地名も残り、相当な規模であることが分かると思います。はっきり言いますが「一揆」の表現は生ぬるいと感じます。普通に「戦い」です。日本で「宗教勢力が武装した恐怖」がよく分かってない感じがします。

野寺の本證寺の当時の規模。「城郭風建築」という説明が甘い。軍事拠点そのものです。

戦乱は西三河南部の全域にわたっています。

主に矢作川沿いの岡崎市南部・安城市南西部・西尾市などが一揆側

戦乱として大きいのは、上和田砦(岡崎市上和田町)を拠点にしていた大久保忠世が立てこもっていましたが、ここで3回も戦闘がありました。

上和田砦は岡崎市立城南小の南です。竜南メーンロード沿いの「三河ラーメン日本晴れ」さんの反対側です。「三河ラーメン」をぜひどうぞ。

戦闘で最大なのが勝鬘寺の一揆勢800人が上和田砦へ押し寄せます。劣勢となった大久保忠世は家康が駆けつけてどうにか持ち堪えます。このシーンあるかな。


一方で、信仰を理由に離反していった3人は既に配役としても発表されています。この3人に注目です。

渡辺守綱

槍の名手・渡辺守綱。一向一揆で家康に槍を向けます。これはドラマでの名場面です。その後どのように帰参するのか。ラグビーのノーサイドのさわやかな帰参なのか。お楽しみです。

なお、槍については応仁の乱前後から鉄砲普及までの期間で非常に存在感ある武器になっています。応仁の乱前は弓矢が主力でしたが戦乱増加で矢の供給が追い付かない(矢は回収とリサイクルが煩雑。使い捨てになりやすい)などの要因から近接戦闘増加し、刀よりも鉄の使用量が少なくて済むので、コスト面からこの時期は槍の活躍が拡大します。

なお、豊田市寺部町には渡辺山守綱寺(浄土真宗大谷派)があります。守綱の菩提寺ですが、今も浄土真宗のようです。どんな経緯なのでしょうか。

そうすると、ますます彼の帰参の風景が気になってきます。

本多正信

本多正信は3人の中では最も知られている人です。政治的な参謀格で、活躍するのは関ケ原の戦い前後からです。これまで老齢の俳優の出演が多かった役です。

「真田丸」では近藤正臣さんが演じました。家康役の内野聖陽さんと三谷ドラマらしい掛け合いが印象に残ります。なお近藤正臣さんは40年前は父広忠を演じています。

右:近藤正臣さんの「本多正信」(「真田丸」)

「葵徳川三代」ではジェームス三木さん脚本で神山繁さんが演じています。

いずれも老齢の配役で、切れ者的なイメージです。今回は、これらとは全く違う年代の松山ケンイチさんが「若い」本多正信役を演じます

まず、三河一向一揆で家康に刃向かいます。このあとは諸国を流浪しています。加賀(石川県)では一向一揆側として参戦もしています。今風に言ったら「就活」「情報収集」でしょうか。そして帰参。平たく言えば「出戻り」。この場面があるのかどうか。これは格好のドラマの場面です。NHKのプロフィール欄では言及がなくわかりませんが、ここは省略しないで欲しいところです。

 今回は嫌われ者の設定になっていますが、現在も「生え抜きばかり」の役所や大企業でなどでの中途採用者や出戻りの扱いを考えれば、そう遠いの話でもないように感じます。当然、本多正信の流浪での多彩な経験がその後に生きるわけですから示唆的です。
 しかし、最近では一回辞めて再度入社する制度も話題で、メリットも強調されています。人材活用と言う観点で「どうする家康」を見ると面白い事例は多いように感じます。

本多正信は一向一揆では家康に刃を向けましたが、老齢になり政治参謀をやっているときの活躍で因縁があります。関ケ原の合戦後に浄土真宗の本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立しました。これを利用して本願寺の東西分立での徳川側のキーマンがこの本多正信です。「若気の至り」を反映させたのか、ドラマにしても面白い場面ではありますが、放映には支障あるでしょう。

戦国時代の本願寺については以下の新書が詳しいです。徳川や本多正信の関与自体は明らかです。

ちなみに、この東西分派会談が行われたのを「北の御所」と言うそうです。どのような仏縁はわかりませんが、豊田市に移設されています。

夏目広次

あまり知られることのない夏目広次です。プロフィール欄で「事務方のトップ」とされてますが、これは明らかに違います。三奉行(市役所部長級)は、本多重次(作左衛門)と高力清長、天野康景で、夏目は課長級です。ドラマの中で勝手に出世させてもらった感じがします。本多重次は40年前のドラマでは本多重次を長門裕之さんが演じています。

本多重次は一筆啓上の手紙が有名ですが、子孫が福井県坂井市丸岡城です。坂井市では、手紙に関しての町おこし・イベントもやっています。

しかし、今のところは、配役紹介欄がありません。「大河出させろ」「夏目がオレより上役とはナニゴト」と「抗議の一筆啓上」が来るかどうか。

どうなる抗議

NHKのページでは「三方ヶ原の戦いで大きな使命を果たす」とされています。夏目広次の「大きな使命」は一向一揆と帰参を伏線とします。ここは必ず泣けるシーンです。ネタバレになるので、これ以上はやめますが、期待のシーンです「三方ヶ原の戦いでのMVP」とだけ言っておきましょう。

三者三様の一向一揆の参加と帰参があります。ドラマでこの人間模様をどう描かれるのか注目されます。



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