見出し画像

岡崎から視る「どうする家康」#16岡崎の犠牲者・信康

信康のふるさとは岡崎

「どうする家康」。「岡崎から視る」視点としての重要人物に信康を挙げます。信康事件は「岡崎から視る」と、ドラマ前半での最大のヤマ場です。

なぜかというと、岡崎としては家康よりも信康の方が岡崎にいた期間が長いからです。信康の通称も「岡崎三郎」です。信康が3歳から21歳まで17年間過ごしたのは岡崎です。家康は成長し桶狭間の合戦後7年間しか岡崎にはいませんでした。幼少期合わせ10年です。

悲劇的な最期だけでなく、歴史的に抹殺された信康を岡崎としては、もう少し大事に扱ってあげて欲しい
と私は強調したいと思います。

信康。永禄2年1559年~天正7年1579年

家庭不和の中で信康は武芸に打ち込む

考えてみると、信康は祖母(伝通院お大)母(築山殿瀬名)妻(五徳)の家族全員、政治的な背景から3人が3人とも会話も全くできない状態だったと推測される点は見逃せません。

伝通院「今川織田に翻弄された。許せない。」「とにかく家康第一。」

瀬名「織田は今川の憎き仇敵」瀬名にとって信康は岡崎で唯一の希望です。

五徳「織田の父のおかげで徳川家やっていけてるってお分かりかしら。」
乃木坂ファンの皆さんには申し訳ないですが五徳は岡崎で嫌われてます。今で言ったら東大出の20代の女性キャリア官僚が地方のド田舎市役所に出向で、本省の意向をことあるごとに言って嫌われないはずありません。嫁姑で見るのは女性向けドラマすぎます。

しかも、父親は浜松に単身赴任だったはずが、愛人と生活してます。

これで、多感な反抗期の青少年がグレていかないはずがありません。

なお、信康はこのように複雑な家庭環境ですが、信康を演じる細田佳央太さんは三井住友カードのCMで「家族ポイント」編に出ています。

教育係平岩親吉はオロオロするだけ

信康は教育の環境も恵まれませんでした。家康は静岡で雪斎のもと当時最高水準の英才教育を受けてきました。今風に言うなら家康は家庭教師付で小学校から学習院や慶応に通っているようなものです。

信康は岡崎で育ちましたが当時の岡崎の文化水準では教育を受ける機会も難しかったのはやむを得ないのはあります。信康はイナカ公立小荒れた公立中育ち、部活オンリー高校のイメージです。

『三河物語』は信康の人物像について「典型的な武辺者」というような記述をしています。これは徳川の都合いい一方的な書き方でしょう。むしろ「家庭不和で居場所がなく部活動の武道に打ち込むしかない生徒」です。

傳役(もりやく)は平岩親吉。岡崎市の南の幸田町坂崎出身。信康の教育係です。何やってたんでしょう。

親吉は、家康と同年齢で静岡にも同行しています。家康の静岡での英才教育を実体験として把握しているはずです。ところが親吉自身に学が無く、信康の教育でも、若い信康の「反抗期」にオロオロする青年教師です。信康15歳の時は親吉32歳の年齢差です。政治的に信任厚く、誅殺など汚れ仕事もやる有能な腹心ですが、教育に向いていなかったのかもしれません。

生徒信康にどうしていいかわからない教師親吉。この親吉の苦悩もお笑いトリオのハナコ岡部大さんがどう演じるか。信康事件後の謹慎も注目です。

石川数正は「市長代理」で忙しすぎた

知恵者の石川数正がこの時期に岡崎市市長代理みたいなポジションです。数正のほうが知恵者ですが、信康の教育まで手が回らなかったように推測されます。数正は家康不在で何かとうるさい岡崎メンバーを切り盛りできた能吏です。今でいう、うるさ型市議のワガママ注文を行政として上手にまとめられる人です。岡崎市役所のほうは想像しないでください。

「ご学友」はいなかったのか

『家忠日記』で有名な松平家忠。一門の深溝松平です。

松平家忠(弘治元年1555年~慶長5年1600年)

信康より5歳年長です家忠のように几帳面に日記書ける「よい子」をどうして側近につけなかったのでしょうか。当時、武家で日記付けられるのは今でいう偏差値高い子です。側近うってつけです。

井伊直政は、信康の2歳年下にあたります。NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で菅田将暉さんが演じましたが。事情で小さいとき鳳来寺にいたので読み書きができた偏差値高い子です。

母の瀬名を通じて遠縁でもあり、直政が早くに信康側近だったら展開が違っていたかもしれません。タラレバですが。

しかし家康の配下になるのが遅く信康と会うことはあまりなかったようです。家康から見ると戦の話題しかない信康より話が分かるインテリの直政のほうが親近感があったのかもしれません。

『三河物語』の作者大久保彦左衛門は1歳年下。大久保忠世の弟で岡崎市上和田の人です。


大久保彦左衛門

平和な江戸時代に戦国時代を引きずる頑固爺ですが、1歳下の彦左衛門を信康の学友にすればよかったのではとも思います。ただ平和な時代に75歳の老人が21歳で悲劇となった知人を、政治的に都合よくどうこう言う後味の悪さを私は感じます。

信康の同世代の側近に関する情報も歴史的に抹殺されていますが『家忠日記』でも信康ほとんど出てきません。側近がなぜいないか。私が考えるに。①「側近はいたものの歴史的に都合悪く消した」説。ありうると思いますが、こういう「史料に人間の薄情さをえぐり出すことに向き合うのが歴史学の作業でもあります。
②「信康側近にすると岡崎メンバーでの人間関係(メンバー等距離)に不都合生じるので当初から全員遠慮」説「大人の事情」が教育に介入する最低最悪の事情です。
③「側近候補が全員親と浜松に行ったのでいない説」親が転勤族で友達いない新天地でひとりぼっちの子をイメージしてしまいます。青年教師の親吉は何してたんでしょう。

これに限らず三河物語での記述を軸にした徳川史観の信康悪者イメージが先行していますが、戦前に柴田顕正が収集した大量の史料には、これを覆したり、傍証するものがあった可能性もあり、岡崎空襲での図書館焼失が非常に惜しまれます

考えてみると、信康は、生命的に処断され、江戸幕府に否定抹殺され、わずかに残った史料も戦災焼失の「3回消された悲劇の人」です。

歌舞伎『信康』(市川染五郎)の新鮮さ

さて、令和4年6月に市川染五郎さんが歌舞伎『信康』を演じています。当然ですが、江戸時代からある歌舞伎ではありません。江戸時代は信康は消された存在で、戦後になって作られた新作歌舞伎です。家康を祖父松本白鸚が演じています。

「信康は、若くして『何が正しくて、何が正しくないのか』と自分の考えを持っていた人だと思います。大人のやり方に不満を覚えたり、なぜそんなことを……と納得できない人に出会ったり。そういう経験は、現代を生きていて共感できる部分だと思います」

市川染五郎さんインタビュー

歌舞伎『信康』は、信康を武辺なものとは別のイメージです。徳川史観で一方的に反逆児扱いされてきたイメージを変えています。

信康の扱いが浜松より小さくていいのか

信康の悲劇的な最期の舞台は浜松市二俣城です。信康山清瀧寺に墓所があります。

浜松市もしっかりPRされていて敬意を表したいと思います。しかし、岡崎の寂しい佇まいの若宮八幡宮はこれでいいのでしょうか

最期の地・遠州二俣より、信康自身は17年間過ごした岡崎にきっと思い入れあるはずです。岡崎はそういう自負があるべきです。

「江戸時代の否定的な扱い、それが歴史」は理解できるとしても、「岡崎での犠牲者」という観点から、「信康は歴史でどう否定されてきたのか」を観光客に紹介したりする、そういうコーナーをドラマ館で企画するなど、岡崎市観光協会も再考する機会ではないでしょうか。

信康役・細田佳央太さんはCMでも「親子」の別離を演じる

信康役の細田佳央太さんは第一生命「息子の旅立ち」篇のCMにも出演しています。ドラマでは「信康の旅立ち」に「信康ロス」が起きる熱演を岡崎だからこそ期待したいと思います。

次稿では信康事件の真相を「岡崎の視点」から考えてみたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?