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岡崎から視る「どうする家康」#12「家康」の現代史


江戸時代は神君、東照大権現として「神」扱いだった徳川家康ですが、明治維新で一転して低評価になりました。タヌキオヤジのイメージの起点はやはり明治でしょう。(実際タヌキオヤジの面は私は否定しません。)


ところが、これを戦後に大きく覆したのが山岡荘八の『徳川家康』です。これが1983年放映のNHK大河ドラマで滝田栄主演の「徳川家康」の原作です。

山岡荘八『徳川家康』の時代背景

もともと山岡荘八は大衆文学の作家として戦前から活躍し、従軍作家としての活躍もあります。

山岡荘八1907年(明治40年)- 1978年(昭和53年)

『海底戦記』『軍神杉本中佐』『元帥山本五十六』など、戦前でも有名な大衆作家でした。

現在では図書館でもほとんど所蔵されておらず残念な感じもします。

これがもとで山岡荘八はGHQの公職追放にもあっています。

この公職追放の解除直後の昭和25年3月から昭和42年4月までこの『徳川家康』が新聞に連載されて人気を博します。地元の中日新聞(当時中部日本新聞)にも掲載されています。当時の新聞連載小説は注目度が高く、影響力がありました。

時系列的に昭和25年から昭和30年代の連載分は「岡崎編」に相当します。ちょうど「今川に小突き回され、独立もままならない松平の苦難と発展というイメージが当時の日本の状況を投影している面があります。今川=米国・GHQ、松平=日本という見立てです。

このために、山岡荘八『徳川家康』で今川義元を悪役に見立てて、人質で苦労という小説での設定は、史実として妥当かどうかより、小説として読み手へのメッセージではないでしょうか。

しかも「浜松編」以降の家康の出世や拡大時代が昭和30年代後半の日本の好景気・高度経済成長と重なっています。しかも昭和30年代を揺るがしたのが日米安保です。『徳川家康』でも武田との抗争の中で織田との同盟があっても援軍がなかなか来ずにやきもきする家康の姿が描かれています。この点は別稿で書きたいところです。

小説と時代背景との関係もこうしてみると興味深いところです。

山岡荘八の「戦争」

一方で、山岡荘八自身、従軍作家として多くの戦死に向き合ってきました
特攻隊で出撃する隊員の中に当時のプロ野球選手の石丸進一もいました。「最後のキャッチボール」を相手として行っています。石丸進一は名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)のOBです。第14期飛行専修予備学生として海軍航空隊に配属後、鹿児島県鹿屋基地から出撃し帰らぬ人となっています。

平成8年の映画『人間の翼 最後のキャッチボール』で山岡荘八も登場し、キャッチボールの相手をします。

映画『人間の翼』主役はプロ野球選手

山岡自身も特攻で見送った戦死者への思いが強く、自邸内に「空中観音堂」を作り祀ってもいます。そして『徳川家康』の連載完結の昭和42年に「あとがき」をこの空中観音堂の前で書いています

諸霊よ、私はあなたがたに、「後を頼む!」と云われた言葉を忘れてはいない。しかし微力な文学の徒であった私には、こうした方法の供養しか出来なかったことを、笑って許してくれるであろうか。
昭和42年3月29日空中観音小堂において

山岡荘八『徳川家康』あとがき

山岡荘八の戦死者への強い想いが『徳川家康』での平和を求める姿、「天下泰平」や「厭離穢土欣求浄土」に込められている点も注目されてもよいのではないでしょうか。

戦後平和主義での家康の再評価」の側面もありますが、むしろ山岡荘八は「自衛隊友の会」や日本会議の前身の「日本を守る会」呼びかけ人になるなど、政治的には保守系にも分類されます。これらは山岡荘八の海軍従軍記者として多くの特攻隊員を見送った経験から来る重いものです。

岡崎城天守閣の再建

現在の岡崎城の復興天守閣は、戦後にできたものです。明治維新で破壊された天守閣を昭和30年に復興の話が持ち上がりました。

ここで、昭和25年から連載で話題になっていた山岡荘八『徳川家康』が影響した面はあると思います。ここで明治以降、否定されてきた「家康の復権」とも言えます。

完成は昭和34年です。岡崎城だけでなく、昭和30年から50年代は経済成長もあり、日本各地で復興天守閣の建設ブームでもありました。

司馬遼太郎『覇王の家』


一方で、国民作家として有名な司馬遼太郎。

司馬遼太郎1923年(大正12年)―1996年(平成8年)

昭和45年に家康を主題にした『覇王の家』を連載します。

『覇王の家』での家康像は「小心で極めて慎重だが悪意を持たない人」と言うことで、家康のワルのイメージを消しています。山岡荘八の家康像とも大幅に違うのが家康を「普通の人」として描くのが特徴です。

いわゆる「徳川家康三部作」で先行した『関ヶ原」や大坂の陣を描いた『城塞』で家康のワルを書いた後に『覇王の家』を書いたのも、ワルと言っても実は小心者で、と言う形での意外性です。

何か、山岡荘八の『徳川家康』へのあてつけのようにも感じられる面はあります。

エッセイでも、「今生きていたら大学出ておとなしく公務員やっている人」のような趣旨も述べています。その是非と言うより、司馬遼太郎の得意とする『竜馬がゆく』に見られるような「未来を夢見る人間」でないと小説としては活き活きしないのはあると思います。

しかも、山岡荘八と異なり「家康の平和希求」の観点は、あまり無いのが特徴です。世代としての戦争との関わり方の反映とも言えるかもしれません。ちょうど一回りと少し違いで軍隊内での待遇も正反対とも言えます。

山岡:1907年明治40年生終戦時38歳。海軍従軍記者での待遇
司馬:1923年大正12年生終戦時22歳。学徒出陣、陸軍戦車部隊

司馬遼太郎も戦車部隊での経験を多く語っていることは有名です。『「昭和」という国家』などにその一端が見られます。司馬遼太郎の世代は、山岡荘八とは異なり、戦争に「行かされた」世代です。戦争を否定的にとらえていないのではなく、「大義」に振り回されるを嫌っていたという感覚のように思います。歴史を題材にした小説の中でも「大義」より「人間」を大事にしている感覚が一般にも受けたのかもしれません。

しかし、当時の大作家山岡・司馬の2名による「家康」の比較はさすがに出版社もビビってできなかったというのはあると思います。実際、司馬遼太郎『坂の上の雲』に対する福田恒存の批判評論を掲載した雑誌に「連載やめる」と言い出したこともあります。(福田恒存「作家Sの横暴」)

戦後の家康ブーム


二人の大作家による作品に煽られるように「家康ブーム」が起きます。この昭和40年代以降の特徴は「経営者のあり方」的な投影や「経営にどう活かす」などの評論も多い点です。「家康が戦国最後の勝者」になった点もあると思います。

昭和の経済成長との関係では「安定した雇用関係」のメリットが盛んに言われていました。今と異なり「残業当然」的なのもありました。「家康と家臣団の関係」に(不幸にも)投影されていた面もあります。

もう一つ見逃せないのが、戦後はマルクス史観花盛りだった点です。歴史を「科学的」と称する学問として、一般人からすると全く面白くないものになっていた点です。一般庶民の「歴史」への知的関心の高まりに、二つの作品が対応したという面は重要かもしれません。

柴田顕正『徳川家康と其周囲』

さて、山岡荘八の大作のもとになっているのは、岡崎市出身の郷土史家・柴田顕正((1873年明治6年~1940年昭和15年))の貢献が非常に大きいところです。

柴田顕正(1873-1940)岡崎の郷土史家

柴田顕正は、伊賀八幡宮の社家の生まれで、現在の広幡小OBです。

東京の國學院大學の第1回の卒業生でもあり、明治の薩長史観の中で「近代歴史学によって『家康以前』を発掘した」人と言えます。

大正10年から『岡崎市史』に取り組み、昭和10年に完成します。この岡崎市史別巻の『徳川家康と其周囲』3巻が山岡荘八『徳川家康』の下敷き、ネタ本です。山岡荘八自身も柴田顕正の著作によるところが大きいと述べています。松平氏の系譜と家康の「岡崎での7年間」には必須文献です。

『徳川家康と其周囲』3巻 

この『徳川家康と其周囲』3巻を昭和10年に出版後の昭和15年に亡くなられます。別巻の追加となる「人物編」が用意されていました。

菅生神社の「例大祭」と図書館

岡崎城の東に菅生神社があります。家康が岡崎にいた永禄年間には殿橋の東にあったようです。家康は25歳の時に菅生神社の厄除け祈願を行い、永禄9年にも社殿を造営しています。その後の紆余曲折を経て、現在の位置に菅生神社が鎮座し、多くの信仰を集めています。

菅生神社の例大祭は7月20日です。前夜の「宵宮」には夜店も出てにぎやかな夏のお祭りです。現在の菅生神社の宵宮。

しかし、昭和20年7月19日の宵宮は、時局として夜店も無い静かな、例年にない宵宮だったようです。祭りの後に寝静まった深夜にあったのが岡崎空襲でした。死者280名。

この当時の図書館は岡崎公園にあり、柴田顕正らが収集した家康関連の史料を多数(『岡崎市史』では20万点)所蔵していましたが、遺稿の「人物編」と共に焼失しました。

昭和20年7月の岡崎空襲で焼失した岡崎市立図書館(岡崎公園内)

「人物編」も仮に残っていれば家臣団の人物像も今とは違う面があったかもしれません。また数万点と言われる史料を柴田顕正もさすがに全部検証できるわけもなく、戦後にかなり修正された面もあったかもしれません。岡崎空襲での焼失が非常に惜しまれます。

人命や財産だけでなく「家康の歴史」が焼かれました。それも家康が信仰し、祈願した菅生神社の例大祭の夜でした。

図書館ということですと米国のスタンフォード大学図書館は、陸軍参謀本部が作成した500万分の1地形図を所蔵しています。岡崎市の地形図は以下から閲覧できます。

柴田顕正は岡崎市の名誉市民にもなっていますが、岡崎市役所のHPでは業績等の記述はたったの一言だけになっています。重要なので繰り返しますが、たったの一言だけです。

八丁味噌のカクキューさんに詳細が出ています。ご参照ください。

三河武士のやかた家康館


岡崎城にある「三河武士のやかた家康館」は昭和57年11月にできています。

NHK大河ドラマ『徳川家康』(滝田栄)の放映が、昭和58年なので、この時は放映開始直前ですが、それ以前の昭和52年ぐらいから建設の話はでてはいたものです。今回のドラマ館の急な話とは事情が異なります。

これは資金的に地元のトヨタ自動車が地元貢献と言うことで5000万円の寄付を行ったことが背景にあります。当時のトヨタ自動車(および系列)も工場用地買収など地元の支持が不可欠であったし、幹部も地元と言うこともあり、山岡や司馬遼の小説や「家康に学ぶ経営」などの本にも影響を受けている面があるのではとも想像します。

さて、「昭和」で変動した家康も令和の世の中で、どう受け止められるでしょうか。

今回の大河ドラマ館は、この焼失した図書館の跡に建った「三河武士のやかた家康館」を改装したものです。

全国から岡崎の大河ドラマ館を訪れたみなさまにも、考えてほしい、現代史としての「岡崎の」家康の歴史の一端を書いてみました。




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