見出し画像

父との釣りの思い出「ハゼの入れ食い100匹」を思い出した、久しぶりの磯津。杉野さんの写真からの聯関に感謝。。。NEW3/2日記

「四日市市磯津の鈴鹿川の右岸堤防道路を河口部まで行った辺りから対岸のやや上流を振り返った感じです。」
杉野さんから教えていただいた場所。今朝、荒天の中、娘を送った後にさっそく向かった。雨の合間に撮影できた。

磯津パノラマ

その対岸の左岸堤防下河川敷に父とのハゼ釣りの思い出がよみがえる。

おそらくは、六年生の夏休み最後の日曜日だったろうか。その朝に、日永の追分鳥居前真田酒店でゴカイを調達。父と弟とバスで、磯津鈴鹿川河口まで出かけたのだろう。おにぎり弁当で。父が釣り道具一式。弟とわたくしが食べ物一式をリュックサックで。現地滞在は、おそらく10時ごろから14時ごろまでであったろうか、ゴカイがなくなり、磯津側の対岸までまわり、砂を掘り起こして追加調達しなければ追いつかないほど、つぎからつぎへと入れ食い状態。ハゼを中心に、たまに、とげが痛いコチ、水面を跳ねていたセイゴなどを釣り上げた、ということなのである。
帰宅後、祖母がいつものとおり調理。ハゼは、からあげにして。ほかのは煮付けであっただろうか。母の営むおみせ(理容店)の人たちにもおすそわけして、みんなで食したのだろうな。

こんな大漁体験は、あとにもさきにもこの一回限り。とても貴重な父との釣りの思い出として、宝となっていたのだった。そのことを杉野さんの一枚が聯関させて思い出させてもらえたと受け止めた。その意味での感謝なのである。

もう一つ、この場所「磯津」。父が直接話してくれたことがなかった話題。四日市公害。これに至る経緯すら、教員になってから、ことの詳細を知ることになる。
このごろになって、なぜ話題にしなかったのだろうかということについて、自分なりに考える機会があった。
それは、四日市公害の語り部としてお世話になってきた、お二人の方が相次いで亡くなられたことが大きなきっかけであった。
そのお二人とは、澤井余志郎さんと野田之一さんのことである。

(以下の文は、先人の実践「社会科学習指導案 小単元名 工業と公害-四日市ぜんそくを核にして-」Ⅱ.単元設定の理由から引用、西暦に表記を変更)

http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/4_5nen/contents/shidouan3.htm

四日市市では、国の重化学工業化政策を受け、1960年、塩浜地区に日本初の石油化学コンビナートを建設した。地場産業としての万古焼きや伊勢水(菜種油)・紡績工場の町であった同市では、砂浜を埋め立てた海岸地帯に工場を次々と建設し、『緑の山と白砂の町』から『煙突の町』へと変貌していった。石油コンビナートの建設は、「工場が来れば市が発展する」「生活をつくる石油化学」として大勢の市民に歓迎され、コンビナートの煙突から出る炎は「百万ドルの夜景」としてもてはやされたのである。
 しかし、コンビナート工場群からの排水は、漁業権を放棄した四日市港のみならず、対岸の磯津地区漁民の生活の場である磯津港をも汚染していった。そこでとれる魚貝群は、「油臭い魚」として全国の市場からボイコットされた。収入の道を閉ざされた磯津地区漁民は、対市・県・工場との団体交渉や水門封鎖などの抗議行動を引き起こした。
 また、林立する煙突から吐き出される亜硫酸ガス(二酸化いおう)は、季節風によって流され、悪臭を放ちながら付近一体を汚染し、周辺住民の生活や健康を著しく害していった。それにより、1955年には一人もいなかったぜんそく重症患者が、1965年には200人を超え、1970年代には1100人に達し、多数の自殺者や死者を出すに至ったのである。
ぜんそくの原因がコンビナートの煙突から出る亜硫酸ガスであることをつきとめた被害者たちは、幾度も対市・県・工場との団体交渉やデモなどの抗議行動を試みた。その結果、学校や病院への空気清浄器の設置・公害病認定制度の発足・テレメーターによる大気汚染の常時監視・三重県公害防止条令の制定など一応の改善は見られたものの、公害患者の医療費負担要求は企業から拒否され、市議会では、霞が浦埋立地に第三コンビナート誘致の強行採決がなされたのである。
 磯津地区公害認定患者9人は、「これから生まれてくる者たちや現在働いている若い世代をぜんそくの苦しみから救い、平和の礎になる」という願いから、第一コンビナート6社を相手に、精神的苦痛に対する損害賠償を求める訴訟を起こした。
 これは、日本で初めての公害裁判であり、この勇気ある行動は、イタイイタイ病や水俣病等の公害裁判を起こす原動力になったのである。そして、『公害を記録する会』『公害患者を守る会』『公害訴訟を支持する会』『公害と戦う市民兵の会』などの市民運動団体の支援を受け、5年という原告にとっては非常に長い年月(この間に原告患者2人が死亡)を経て、1972年7月24日、原告側の全面勝訴を勝ちとったのである。
 この判決を受け、市や県では、公害病認定患者の治療無料化・公害防止条令の見直し・工場への指導の強化・大気汚染の判定局の設置などを行い、工場側でも患者への保障・有毒ガスを出さない燃料や設備の工夫などを行ってきた。
 その後、四日市市は、大気浄化植物(夾竹桃・カイヅカイブキ)による緑化が進み、二酸化硫黄濃度も目標値を下回り、『星空の町』に認定されるほどに青空を取り戻しつつある。また、市役所の公害対策課は環境保全課と改名され、1985年からは公害病認定制度が廃止されている。
 しかし、失われた尊い人命は二度と戻ることなく、いまなお700人以上(1997年現在)の人が公害病認定患者として、重症のぜんそく発作に苦しめられているのである。
 さらに、コンビナート近くの地底(通学路にさえも)やコンビナート間を結ぶ海底には、石油や天然ガスのパイプラインが張り巡らされ、火災や爆発の危機にさらされている。クリーンエネルギーといわれる天然ガスを燃料とする火力発電所も新たに建設され、国道を通る車やその発電所から排出される二酸化窒素濃度は、徐々にではあるが増加してきており、新しい公害を引き起こしている。
 「裁判では勝ったが、青空は回復していない。ほんとうの青空を取り戻したときに改めてお礼のことはを述べたい」と語った原告患者代表は、その後、「裁判は、実質的に企業側の勝利に終わった。企業側は、金さえだせば何をしてもいいと思っている。」と語っている。

(以上で引用終わり)

当時は、水質汚濁から始まり、亜硫酸ガス(二酸化いおう)による四日市ぜんそくの精神的苦痛に対する損害賠償を求める訴訟、いわゆる、四日市公害裁判の原告側の全面勝訴判決が出る(1972年7月24日)の前年にあたる。また、1971年7月に環境庁が発足し、環境改善のための総量規制の考えでの取り組みが開始されるなど、様々な状況変化の前後の時期に重なる。
それでも、「油臭い魚」の風評が依然としてあったのだろう。

この年、1971年の夏休みの最後の日曜日には、少なくとも鈴鹿川河口磯津の地で釣れたハゼたちには、その暗い影響は感じることはなかった。このことから、「自分の目で確かめてみないことには、言われることを鵜呑みにしてはいけない。いわんや、四日市公害に対する認識をや。」

上記の引用は、「四日市公害を忘れないための教訓をそれぞれが考えることを止めることがないように」との願いから公開されている。

決して忘れてはならない。

ことあるごとに自身で得た教訓を活かせるようにと・・・

自身の体験から、父はわたくしに気づかせたかったのだろうと、いまにして思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?