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妊娠徒然日記-命を生みだす重み-

寝ているときに,お腹の中から呼ばれた気がして目が覚めた。お腹がぐいーんと変形するほど動いている。

「これは命の重みだな。」

と,寝ぼけた頭で考えていた。

そのときはそのまますぐにまた眠りについたけど,後からこのときのことを思い出した。

私は,自分が生まれてきて良かったのかの結論も出ていないのに,子どもは生めないと思っていた。そして,自分が生まれてきて良かったのかの結論が出てから子どものことは考えよう。そう決断した矢先に,長男を妊娠していることが判明した。だから,私がこんな決断をしていたときには着々と私の中で新しい命が芽生えはじめていたのだ。(このエピソードをまとめたものはこちら⇒妊娠を機に起こった私のコペルニクス的転回Ⅴ-そろそろ本題へ…子どもどうする問題-

だから,私は,妊娠初期の頃の不安定な時期に,「この子が生まれてきて良かったと思ってくれなかったらどうしよう。」などと悩んだりもした。

私自身が生まれてきて良かったのかの結論すら出ていない状態なのに,そんな私が子どもを生むことが,果たして許されるのだろうか。

たくさんの人が子どもを生み,育てている。子どもを生んで育てるということは,人間だって生物である以上,むしろ,自然な営みだ。それなのに,こんな私のような悩みを抱えている人がいるのだろうか。もっとシンプルに妊娠したことを手放しで喜べたら良いのに…。手放しで妊娠したことを喜べていないような気がして,それはそれで,私の新たな悩みとなった。

私は自分が生まれてきて良かったのかの結論も出ていないなんて悩みを抱えていることを誰にも話したことはなかったのだが,妊娠初期の頃,上記のような悩みを抱えていることを夫に話した。そうしたところ,夫は「大江健三郎の本にそんな話があったよ。」と教えてくれた。ここでは内容は割愛するが,少なくとも,この種の悩みというのは私一人の特殊なものではなく,小説の題材となるくらい,実はありふれた悩みなのかもしれない…そう思ったとき,少しだけ心が軽くなったような気がした。

それから,いろいろありつつ(この辺りは妊娠を機に起こった私のコペルニクス的転回に書いている。),ようやく安定期を迎え,心身ともに,「妊婦であること」にも慣れてきて落ち着いてきた頃,私は,ふと気付いたのだ。

私は自分が生まれてきて良かったのかの結論も出ていないけれど,だからこそ,私はこの子が生まれてきて良かったと思えるように,私の全てを懸けて育てよう。そうすれば,私なんかが子どもを生むことも許されるのではないか。

そんな風に思えるようになったのだ。
このような心境の変化が起こったのは,今になって思えば,初めて行った妊婦健診で,エコーで胎盤にしがみつくような姿勢の赤ちゃんを見たときに,「私が母親の自覚がなくたって,この子にとっては私はもう母親なんだ。」と衝撃を受け,ようやく「母親」になれたことから(このエピソードをまとめたものはこちら⇒妊娠を機に起こった私のコペルニクス的転回Ⅹ-私が「母親」になった日-),私の中で「命を生みだすことの責任」が芽生えはじめたのだと思う。子どもを生むことが許されるのかと悩むのではなく,許されるように育てる,そう思えたことは私の中ではとても大きなことだった。

そうして,それから数ヶ月が経ち,妊娠後期になって,胎動で起こされ,胎動は命の重さだと寝ぼけた頭でふと考えた日。

出産も近づき,私は,改めて命を生みだすことの責任について考えた。
私は,かつて,自分が子どもを生むことが許されるのか,などと悩んでいたのだが,それって,なんだか違うよね…と,今では思う。私のかつての悩みは,生む私と私から生まれる子どもという,子どもを自分の一部として捉えていて,子どもを自分の支配下にあるかのように考えていて,私視点の物の考え方で,それはものすごく傲った悩みだったように感じる。こうやって胎動をはっきりと感じるようになった今,お腹の中の長男は,私のお腹の中にいても,確実に私ではない一人の人間で,それはもう,私も夫も,長男を生んで良いとか駄目だとか,そんなことを決められる立場にないし,決めてはいけないのだということを突きつけられているような気がする。
だから,今となっては,私が子どもを生むことが許されるのか,なんて悩みはその悩み自体が間違った悩みだったのだと思っている。
一方で,子どもを生むこと,つまり,新しい命を生みだすことの責任をズシンと感じるようになった。
この責任を果たすには,私は長男に何をすべきか,私にできることは何なのか。
今はそれを模索している。まだまだ答えは見つかっていないけれど,ただ,長男は私や夫をはじめ,たくさんの人たちに望まれて,生まれてくることを楽しみにされて,生まれる前から愛されていたということ,長男と一緒に生きていけるというそのことだけで,私と夫がこれまでの人生で一番幸せだと思えているということ,つまり,長男のことを心から愛している人たちがいるということを言葉だけでなく,行動でも伝えていきたいと思っている。
誰かに愛されていること,愛されていたこと。生きていくうえでこれはとても大事なことだと思っている。それは私自身,これまで真っ当に生きてこられたのは,自分を愛してくれている両親を悲しませられない,自分を愛してくれていた祖父母のお墓参りを堂々とできなくなるようなことはしない,などと思って生きてこられたおかげだと思っているからだ。(このエピソードをまとめたものはこちら⇒妊娠徒然日記-善とか悪とか-
こんな風に,生きていくうえで,心の拠り所というものはものすごく大事だと思う。
まだ本当の意味での母親にはなれていない私は,長男のためにできることは今はこれくらいしか思いつかないけれど,これから日々模索しながら,私は命を生みだした責任を果たしていきたい。

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