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いつか、この風景を思い出す日のために。

ここのところ、1歳の息子が、私に食べさせることにハマっている。
はじまりは、息子を連れて、私、夫、私の両親で、デイキャンプをしたときのこと。
それまでは息子は大人の食べ物を触ったりすることはほとんどしなかったのだが、その日は、私が食べているものを手に取って、なぜかじいじにあげるということをしはじめた。

それ以降、家でも、息子は、私のサラダ(生野菜)を手に取って、1つずつ渡してくれて、しかも、渡したあとに、それを食べろと言わんばかりに、私の手を私の口元に持って行くように促すということにハマった。
ある日、じいじが刺身を醤油につけているところを見てからは、息子は野菜を別のお皿にいったん入れてから渡してくれるようにもなった。
息子としては、野菜に醤油をつけているところのようだ。

そんな日々が続いていたのだが、先日、息子が大きめの野菜を「どうぞ」と渡してくれたので、私はそれを口でそのままパクッと食べてみせた。
そのときの息子の表情。
ハッと驚いた顔をし、それから目をキラキラと輝かせ、満足そうな満面の笑みになった。
それからというもの、今度は手で受け取ろうとすると、いや、口だ、と言わんばかりに私の口元に持ってくるようになった。
虫歯菌やらなにやら、息子の手に私の唾液がつくことは避けたかったけれど、でも、ここで息子の欲求を叶えてやらないことの方が、虫歯菌云々よりも、よほどいけないような気がして、そもそも、息子は自分の手を口に入れることもほとんどしないし、後で、手をちゃんと拭けば良いか、と思って、息子のしたいようにさせることにした。
あの目の輝きや満足そうな笑顔を、息子にはまだ理解できない虫歯菌云々で、曇らせたくはなかったのだ。

そして、昨日、近くの公園までお散歩に出かけたときのこと。
その前の日のお散歩のときからやたらと葉っぱが気になっている様子で、昨日も、葉っぱが気になって仕方ない様子であった。
ちょうど抱っこして歩いているときだったので、おろしてあげると、一目散にツツジの葉っぱを取って、そして、その葉っぱをまた取ったところあたりに戻すということをしはじめた。
その姿を見ただけでも、私は息子の成長に感動した。
人見知り・場所見知りの激しい息子は、お散歩のときはいつも緊張した感じで、おとなしーくなってしまっていたため、自分で葉っぱを取って笑っているというだけでも、息子にとっては大きな成長だった。
そうして息子の成長に目を細めていると、息子は手に取った葉っぱを私の口元に持ってきたのだ。
どうやら、気になって仕方なかった葉っぱは、私が食べている野菜と同じだと思っていたようだった。
夫と私は大爆笑だった。
「これ、野菜じゃないよ。食べられないよ。」と、夫と私が必死に説得してみたところで、息子は得意げな顔をして、私に食べさせようとしていた。
私は唇に葉っぱを挟んで食べたふりをした。
そして、息子はパパにもあげようと思いつき、今度は夫に食べさせようとして、夫は手で受け取ろうとしたものの、息子は、いや、口だ、といった感じで、夫にも葉っぱを食べさせていた。
夫と、「これ、息子が大きくなったときに、絶対言ってやろうね。」と話していた。

その日の夕食のとき、息子はまた生野菜を私の口に入れはじめた。
最初にあげるときは、息子も口をあーんとして、私に食べるように促している。その仕草が、私が息子にしていることそのまんまで、息子は自分がしてもらっていることをしてあげているんだな、と思い、その逞しい成長を愛おしく思った。

そして、ふと、「私が年老いたとき、息子がまたこうやって食べさせてくれる日が来るのだろうか。」ということが頭に浮かんできた。
そのとき、きっと、1歳の息子が食べさせてくれていたときのこと、つまり、今この瞬間のことを思い出すんだろうなあ、と思い、なんだか胸がキュッと締め付けられそうになった。
そして、同時に、背景、つまり、夫や両親のことも思い出すのだろう、と思い、私が年老いたときには、すでに両親はもちろん、ひとまわり以上年の離れた夫もいないのではないか、ということにも気付き、
ああ、今が1番幸せだなあ
と、思った。 
私は、子どもであり、妻であり、母でもある、今、両手で抱えきれないほどの幸せを手にしているのだということを、繰り返される日々の中で忘れてしまっていることが多いのだけど、私に一生懸命野菜を1つずつ取って食べさせている息子の顔越しに映る日常が、なんだかとても愛おしく感じた。
私は、いつかおじさんになった息子がおばあさんになった私にこうやって食べさせてくれる日のために、この風景を、しっかりと、しっかりと、目に焼き付けた。

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